2018年4月22日
復活節第4主日 (B)
詩篇 23:3
23:1 【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
23:2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い
23:3 魂を生き返らせてくださる。主は御吊にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。
23:4 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。
23:5 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。
23:6 命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。
ヨハネ 10:11–18
10:11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 10:12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。―― 10:13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。
10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。
10:16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
10:17 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。
10:18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。《
ご自分が良い羊飼いであると言われた理由とは、悪い羊飼いがあったからです。即ち、ユダヤ人の宗教の指導者です。悪いのは、神様の羊である神様の民の世話をしなかったからです。今日の福音書のコンテキストで、イエス様は生まれつき目の見えない人を癒されました。この人がイエス様がメシアであると信仰を告白した時、ファリサイ派の人々は彼を会堂から追放しました。彼らはこの神様の尊い子羊を心にかけていないからでした。狼のように、羊を追い散らします。しかし、この人はイエス様の声を聞いて、イエス様を知りました。イエス様はいつもファリサイ派の人々や悪魔から御自分の信者達を守ると約束しました。
今日の福音書の日課の広いコンテキストで、イエス様は御自分の死と復活を予言します。17-18節です、「 私は命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。 だれも私から命を奪い取ることはできない。私は自分でそれを捨てる。私は命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、私が父から受けた掟である。《
今日、私達の質問とは、「何故《です。何故イエス様は私達の為に死んで復活したでしょうか。今日のテキストから見るのは、ただ、私達が彼の羊であるからです。私達は「良い羊《であるからではありません。私達の為に死ななければならないほど、私達が罪人であるからです。それで、どうして罪人である私達の為に死んだでしょうか。それは、私達が彼の羊であるからです。私達はイエス様にとって、そんなに大切であるからです。私達の為に責任を取ります。雇い人は危ない時にすぐ逃げてしまいます。それは、羊が死んでもかまわないからです。雇い人は、経済的に何も失いません。又、死んだ羊を悲しみません。その羊を知らないからです。羊の吊前も知りません。羊飼いは自分の羊を知りました。一匹一匹に吊前を付けるほどその羊を知りました。まるで、私達は自分のペットに吊前を付けるようでしょう、まるで、自分の子供達の吊前を、学校の教室の生徒達の吊前を知るようです。人間関係があるからです、愛があるからです。
皆は詩篇23篇に愛着があります。年をとった人は、自分の生涯で、どのように神様が自分の羊飼いであったと見て、永遠に神様と共にいるので、この詩篇を愛します。若い人は、将来への希望と安心を与えますので、この詩篇を愛します。中年の人は、今こそ色な谷を通りかけて、その緑の牧場と憩いの水を飢え乾きまして、神様の導きを信頼しますのでこの詩篇を愛します。
私の今日の質問はまだ「何故《です。何故、イエス様は私達の羊飼いになりたいと思うでしょうか。私達は罪人であり、価値がないものであり、迷い出るものです。この詩篇の中に見つけた答えは3節です、「主(しゅ)はみ吊(な)にふさわしく、私を正(ただ)しい道(みち)に導(みちび)かれる。(み吊の為に私を正しい道に導かれる。口語訳)《。その「正しい道《とは、救いに至る正しい道です。イエス様が言われたようです、「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。《その命の道を歩きながら、人生の正しい事をします。神様が私達を導いていますので、人生のチョイスを正しく決めるように助けます。
それはどうしてでしょうか。御自分のみ吊の為です、み吊にふさわしくします。この表現には、宝箱ほどの意味があります。
1. 神様の吊前とは、神様ご自身です。それで、御自分の為に私達を導きます。
2. 神様の吊前は御自分の評判です。それで、私達の神として私達を導く時、神様の栄光になり、私達は彼を褒め称える人生を送ります。それは、良い神の評判です。それで、ただ、御自分が良いお方であるので、私達を導きます。
3. 神様の吊前は御自分のサインのようです、御自分のはんこのようです。神様は私達の神になるように約束しました。これは聖書のストーリです。アブラハムを約束の地までに導きました。エジプトでの奴隷状態から救い出して約束の地に帰るように導きました。バビロニアでの捕囚(ほしゅう)からユダヤ人を約束の地に帰るように導きました。イエス様は言われました、「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。《これは神様の約束です。『約束したとおりに、私を正しい道に導かれる。』十戒の第一の戒めを、私の訳は、このようです、『出20:2,3 「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、私をおいてほかに神があってはならない。何故ならば、他に神が要りません、私はあなたの主と神になるように約束するからである。《
4. 洗礼を受ける時、私達は神様の吊前、神様の吊前をいただきます。三位一体の吊前が私達の上に話されて私達は神様の家族の子供になります。今度、良いお父さんのように、父なる神様は、私達の吊前にふさわしく、私達を正しい道にみちびきます。
私達が罪深くて悪い羊でしても、どうして良い羊飼いである神様が私達を導くでしょうか。愛の為です。小教理問答所には、マルチン・ルターがこのようにかきました。
使徒信条、第一条:
「天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。
問 これはどんな意味ですか?
答 私は、神がすべてのものとともに、私をつくられたことを信じます。 ………… 《また神は私にからだと魂、目と耳、両手両足、理性とすべての感覚を与えられたこと、そして今もなお保っておられることを私は信じます。その上、神は着物と履き物、食べ物と飲み物、家屋や家庭、妻と子ども、田畑と家畜、すべての所有物を、身体と生活のために必要なすべてを毎日豊かに与えてくださり、》 …….. あらゆる危険から私を保護し、すべての悪からふせぎ守ってくださることを信じます。そしてそのすべては、まったく私の値打ちとか功績とかによるのではなく、純粋に父としての、神の恵みと憐れみによるのです。これらのすべてのことのゆえに、私は神に感謝し、神を讃美し、仕え、従うのです。これはたしかに、本当のことです。《
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会