2016年3月6日-- 受難節第4主日C. -- 合同礼拝
福音書 ルカ15:11~32(新139) 15:11 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。 15:12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。 15:13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。 15:14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。 15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。 15:16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。 15:17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。 15:18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 15:19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』 15:20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 15:21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』 15:22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。 15:23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。 15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。 15:25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。 15:26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。 15:27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』 15:28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。 15:29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。 15:30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』 15:31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。 15:32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」 |
+
子供の説教で、放蕩息子について話しました。今度、彼のお父さんについて話しましょう。
お父さんも放蕩的な人でした。愛を無駄に使い、愛に関して、贅沢過ぎる生き方でした。最初から息子を愛しました。息子が『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言ったとき、お父さんの心が痛んだでしょう。その財産とは遺産です。人が死んだ後に分ける物です。ですから、その息子はお父さんとの縁を切りたいと思いました。お父さんがもう死んでしまったようです。大きなショックでした。しかし、このお父さんの愛は、子供が欲しいい物を与えるほど大きいでした。そうしなければ、その子は決してお父さんの愛を知らないでしょうし、いつまでもお父さんを憎むでしょう。このような愛があったので、その息子を行かせました。そして、その同じ愛は息子の帰りを毎日待ち望みました。ただ待つ事ではなくて、いつも道路の方を見て一番遠い地平線の方を眺めて、息子が来るかどうか捜しました。それは20節の雰囲気だと思います。「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」それは愛でした。息子の罪の告白や懺悔(ざんげ)を聞きたくありませんでした。もう既に息子を赦していたからです。息子の為の愛は、大きな歓迎会(かんげいかい)になりました。「『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』」そのような愛は、放蕩的なお父さんのようです!
愛を無駄に使う事が出来ます。しかし、愛が無限ですので、無駄にしても、無くなる事が出来ません。無駄に使ってもかまいません。私達の愛を受ける価値のない人がいるでしょう。私達の愛を返さない人がいるでしょう。自分が愛されている事を知らない人もいるでしょう。それでもオーケーです。神様はそのようにしてこの世を愛するからです。人が神様の愛の為に感謝しなくても、神様は愛し続けます。神様は最初の放蕩のお父さんで、イエス様は最初の放蕩息子でした。イエス様は遺産を持って、即ち神の国の遺産を持って、お父さんの所を出て、この地上で、それを受けるだれにでも与えました。愛を下さいます。永遠の命の遺産を与えます。逮捕された時、困った時に、例え話と同じように、友達がイエス様から逃げました。そして、イエス様は最も卑しい仕事をしました。即ち、十字架を背負って、世の罪をご自分の上に取りました。十字架上で死んで、3日目に甦りました。お父さんの所に帰りましたし、彼を信じる誠の兄弟姉妹の所にも帰りました。聖餐式はイースターの祝会です。お父さんが言ったようです。「彼は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」本当に、当たり前です!
子供の説教の時に話したのは、子供が確信を持って帰る事が出来るのは、両親が子供を愛するからです。親達の仕事とは、子供が帰りたいと思う安全な家庭を作る事です。子供がいたずらをします。青年は反抗的です。成人になる子供が家を出ます。親達は、神様から習わなければならないのは、どのように、自分が迷って行ってしまった時の後に、どのように父なる神様が自分達を家に喜んで迎え入れられたかの事です。愛ですし、赦しですし、放蕩父のようです。
家族の中だけデはなくて、私達の人生の他の場面にも放蕩父のようになれば良いです。家族、友人、学校、職場もです。
最後に、私自身がこの例え話の意味を覚えた一つの例を話したいと思います。私の犬の名前はケィーティでした。良い犬でしたが、たまに放蕩犬でした。その時、ケィーティは自分がホウトウドッグではなくてホットドッグだと思ったでしょう。普通は良い犬でしたが、自由になる時、近所をさまよう事が好きでした。私は、ケィーティが家から出ないように、訓練するように、家に帰る時、ちょっと手をのはして、ドッグハウスに入るように命令しました。数回やって、逆の結果になりました。家に帰りましたら、ばっせられると思って、犬は帰る事を怖がって、道の向こうに座ってしまったのです。最後に、私が理解して、犬が安全に思って、喜んで帰る事とは、愛があると思う時です。クッキの何枚ともうしかられない事でした。ケィーティは近所を歩き回る事が大好きでしたが、すぐ帰りました。家に愛があると分かったからです。同じ理由で、私達は私達の父なる神様の家に戻ります。愛がそこにあるからです。子供が家に帰るのは、同じでしょう。
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会