宗教改革説教シリーズ#2 
 Sola Fide-信仰のみ

2017年10月8日


宗教改革時代以来、この500年で、ルーテル教会にとってとっても大切なテーマがいくつかあります。“恵みのみ、信仰のみ、キリストのみ、聖書のみ”です。今日、信仰のみ、ラテン語では、“Sola Fide”と言います。A. 「信仰」とは何ですか。B.どうして宗教改革時代に大切か。 C. どうして今も私達にとって大切かについて話しましょう。

A. 「信仰」とは何ですか。時々、女の子の吊前になり、又は、教会の吊前につけます。時々、「宗教《と意味して、「キリスト教の信仰」や「仏教の信仰」のようです。聖書の中には、「信仰を持つ《とは「信じる」と同じです。信仰は信頼であり、確信、忠実、信実と認める事です。

B. マルテン・ルターは、自分が罪人であると分かる人でした。神様の罰を恐れた人です。自分の罪を一つ一つ・大きいものも小さいものも・告白しなければ、赦しを得られないと思いました。神様の救いを得る為に、自分が良い人生を送り、良い業を行わなければならないと思いました。これはその時代のすべてのキリスト信者が普通に信じる事でした。ルターはウィッテンベルク大学の教授になりました。聖書を教えたので、クラスで上手に教える為に、自分自身も聖書を研究しました。聖書を学んで、特にローマ人への手紙とガラテヤ人への手紙を学んだ時、福音を発見しました。その福音は彼自身に、自分の心と魂に、大きな平和を与えました。平和を与えたのは、自分のする事によって自分が救われるのではなくて、キリストの行いによって救われる事です。3つの聖句を読みましょう。

 ローマ3:28 “なぜなら、私達は、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。”

 ローマ 5:1 “このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており[ます]。”

 ガラテヤ 2:16 “けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。”

聖パウロと同じように、ルターが見つけたのは、神様を信じる信仰によって生きる意味です。平和と自由と安心です。信仰とは真実である神様の約束に頼る事です。信じるすべての人々への約束です。
ヨハネ3:16です、“神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。”

ルターの時代の教会の教えによりますと、信仰のみでは足りません。救われる為に良い業も必要でした。ルターが言うのは、聖パウロと同じように、良い業は神様を信じる信仰の結果です。必要ですが信仰の結果です。私達は良いクリスチャン生活を送ろうと思いますが、私達を救う良い業が一つしかありません。その良い業とは、イエス様の働きです。私達の罪を赦す為に十字架上で死んで、私達に永遠の命を与える為に三日目に甦られました。私達の弱い業によるではないので、私達は自分が救われた事に確信を持つ事が出来ます。何故なれば、全能のキリストによって救われているからです。それで、信仰の意味とは、確信であり、信頼、希望、救いを受け入れる事、又、神様に対する信実です。

C. どうして今も私達にとって「信仰のみ《が大切でしょうか。短い答えとは、自由があるからです。それで、地獄、煉獄、神様の怒りについて心配しなくてもいいからです。それは、キリスト信者の心にある完全な平和です、「人知を超える神の平和《です。

しかし私達皆に分かるように、神様の目には私達すべては罪人です。イエス様のみ言葉が私達にも話します。言われました、「悔い改めて福音を信じなさい《と。それで、信仰の最初の行動とは、良い業ではなくて、悔い改めです。ですから、礼拝の式分の最初は、ざんげと罪の赦しです。マルテン・ルターはその有吊な「九十五カ条の提題《を書きました。第一は言います、「われわれの主であり師であるイエス・キリストは、『悔い改めよ』などと言われた事によって、信徒の全生涯が悔い改めである事を求められたのである《と。悔い改める事が出来るのは、信仰があるからです。その信仰は、神様がイエス・キリストによって私達を赦して下さる事を信頼するからです。私達がする行いによってではなくて、キリストが私達の為になさった事によるのです。

私達にとって危険なのは、私達はあるルーテル派のお爺さんと同じようなる事です。彼は誇りを持って言いました、「確かにわしが天国に行きますよ。わしの全生涯に、一つの良い業をもしなかったからです《と。危険なのは、信仰生活をゆるめる事です。自分の罪がそんなに悪くないだろうと思います。どうしてもイエス様が自分を赦すので、心配がありません。しかし、もし罪が悪いものでなければ、イエス様は十字架上で死ななくても良いです。私達が人生を送る事は、神様を恐れる事と神様を愛する事の間に挟まれています。そして、それを分かって、自分を信頼しないで、神様を信頼するのです。それこそは『信仰のみ』の意味です。それで人生が送りやすくならないでしょう。私達の周りに多くの問題、病気,天災、死、偽り、悪魔があります。しかし、死と地獄の苦しみを私達の為に受けたイエス様は、私達に信実にいます。それは『信仰のみ』の力です。

アーメン。


どうか、「あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と思いを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。《(フィリピ4:7.)

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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