免罪符

2017年10月29日, 宗教改革主日


正式に言うと、ルーテル・プロテスタント宗教改革の始まりとは、1517年10月31日でした。その日、初めて、マルテン・ルターは、正式に、公に、キリスト教会の中の教えについての論争への呼びかけました。その日に、有吊な95か条を貼りました。免罪符の販売の反対の文書でした。実は、キリスト教会の中の中心の教えについての論争への呼びかけでした。その中心的な教えとは、罪の赦しです。イエス・キリストは私達の罪を赦す為に十字架上で死んで、私達に永遠の命と救いを与える為に三日目に復活しました。教会の中のすべての人はイエス様の死と復活を知りました。それが私達の罪を赦す為にだったと皆は知りました。しかし、どのようにその赦しと救いが私に来るでしょうか。買う事が出来るでしょうか。他の人の為に、もう既に死んだ人の為にさえも買う事が出来るでしょうか。又、良い人生を送れば、それを得るでしょうか。慈善の活動や教会への献金で得るでしょうか。決まっている祈りや特別な礼拝によって天国に行けるでしょうか。

免罪符とは、人の罪が赦されていると言う証明書です。それで、罪を犯しても、天国に行ける保証です。実は、良い考えでしょう。自分の振る舞いを心配しなくても良いですし、好きな事が出来るし、罪を犯しても良いです。しかし、免罪符にはいくつかの問題があります。先ず、赦しを買う事が出来ません。交通違反の罰金と違います。映画館の切符を買う事と違います。実は、買う事が出来ないのは、イエス様はもうすでに、十字架上で死んだ時に、あなたの赦しの代金を払いました。御自分の聖なる血によって払いました。もう既に払った物を払う事が出来ません。そして、イエス様は全能の神であるので、彼の血は世の罪、あなたのも私のも、赦しました。免罪符のもう一つの問題とは、もしイエス様の犠牲に何かを加える必要でしたら、イエス様の犠牲が完全なものではないように考えさせます。それは、神様の栄光を少なくするようです。  

それでは、どのように人が罪の赦しをもらって天国に行けるでしょうか。どのように神様との正しい関係に入る事が出来るでしょうか。どのようにそれを確かめるでしょうか。確信出来るのは、神様の約束の御言葉があるからです。そのような約束はローマ3:22*24です。

「3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。《

信仰とは、神様がもう既にあなたの為になさった事を信頼する事です。信仰とは、自分が自分を救う事が出来ない事です。イエス様が代金を払ったので、恵みのただの贈り物です。

免罪符と言う英語の言葉とはindulgenceです。英会話で、宗教的な意味ではありませんが、あまり良くない事をやりすぎると言う意味に使います。例えば、ダイエト中で、体重を減りたいと思いますが、今日、今日だけ、チョコケーキとアイスクリームを食べる事に特別の許可を自分に与えます。英語ではindulgeと言います。良くないと分かりながら、自分に許可を与えます、後はおなかが痛くなってもです。宗教改革時代のJohan Tetzel師は免罪符を売りました。体重が増えないで、チョコケーキを食べる事が出来るようでした。罪を犯しても、煉獄で苦しい罰を心配しなくても良いそうです。


二つの日本語の言葉があります。発音は同じです、意味もちょっと似ていますが、書く漢字は違います。1. 許しyurushi = permit and 2. 赦しyurushi = forgive.   #1は許可を与えます。普通にしてはいかない事をしても良い事にします。例えば、立ち入り禁止の所に入っても、罰金がありません。#2は、許可なしにその立ち入り禁止の所に入ってしまった時に大切です。#2があれば、罰がない事になります。免罪符は、#1のようです。イエス・キリストによる救いは#2のようです。神様は、私達が罪を犯す許可を決して与えません。しかし、罪の赦しを与えます。それは、私達が正しい事をするからではなくて、神様が正しい事をするからです。ですから先に呼んだ聖書の箇所によりますと、私の義ではなくて、神様の義です。神様は正しいことをするからです。キリストによって神様の恵みです。それこそは宗教改革時代の中心的なテーマでした。その時も今も、全部がイエス・キリストについての事です。

もう一つの免罪符の問題とは、それをお金で買う事です。「コインを箱に入れると、魂が煉獄から出る《と言うようなスローガンがありました。値段は人の所得によるそうです。そのお金がない人は、特別な祈りや断食ですむ事が出来ますが、一年間、パンと水だけにする断食がかかるそうです。この理由で、ドイツの人々がマルテン・ルターの話が好きだったでしょう。ルターが言ったのは、神様の恵みは無償、ただ、お金が要らない、神様から赦しを買う事が出来ないと言いました。イエス様にとって御自分の命の血で払いましたが、私達にとってただです。素晴らしいバーゲンでしょう!自分が何でもかんでも出来ます、何をしても、後に赦しがあるからです!

ドイツの牧師と神学者、ディートリヒ・ボンヘッファー Dietrich Bonhoefferは有吊な本を書きました。“The Cost of Discipleship.” 値段が安い恵みと値段が高い恵みについて書きました。安い恵みは免罪符に近いです。[Michael’s translation.] ~『悔い改めない赦し、教会について教育がない洗礼式、ざんげなしの聖餐式。弟子にならない事は安い恵みです。十字架がない恵み、私達と共に生きているイエス・キリストなしの恵みです。』~ 安い恵みについての福音の説教はこのように言います:『勿論、あなたは罪を犯したが、全部が赦されているので、振る舞いを変えなくても良いです。赦しの慰めの中に安心して楽しんで下さい』と。問題とは、弟子にならなくても良い事です。高価な恵みは違います。

[Michael’s translation.]『その恵みが高価になるのは、私達がイエス様に従うように呼ぶからです。その値段は人の人生ですが、人に誠の人生を与えるので恵みです。罪を否定するので高価で、罪人を義にするので恵みです。神様の子の命がかかったので、高価です。それで私達にとってやすぽいものではありません。。。。』

ルーテル教会の信者にやって来る誘惑とは、私達は神様の恵みのみと信仰のみに頼りますので、罪の中に生きて、罪を心配しない事です。しかし、ルターの95か条の第一箇条はこのように言います。「1.われわれの主であり師であるイエス・キリストは、「悔い改めよ《などと言われた事によって、信徒の全生涯が悔い改めである事を求められたのである。《悔い改めとは、自分が神様の御前で罪人であると知る事で、心でごめんなさいと言いて、そして罪の赦しをいただく事です。それは毎日、いつも、するので、完全に神様の恵みによって生きる事です。それは信仰です。それはキリスト者の人生です。それは、私達の今日のお祝いです。それは私達の祈りです。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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