いつも喜んでいなさい

待降節第3主日B、2014年12月14日


第2朗読  1テサロニケ5:16~24 (新379)
5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。
5:19 “霊”の火を消してはいけません。
5:20 預言を軽んじてはいけません。
5:21 すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。
5:22 あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。
5:23 どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。
5:24 あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。

いつも喜んでいなさい

聖書の中には多くの命令があります。あるものは厳しい、難しい、ただ不便で、めんどくさいです。例えば、「敵を愛せよ」。又、良いサマリア人の話しの最後に、イエス様は不便でしても、「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ10:37)と言われました。しかし、第1テサロニケ5:16には、好きな命令があり、本当に守りたい命令があります。即ち、「いつも喜んでいなさい」と。ただし、もし自分がいつも祝福されていると感じましたら、簡単にこの命令を守ります。しかし、いつもハッピーではないので、いつも優れている気持ちがありません。しかし、第1テサロニケ5:16は、「いつも喜んでいなさい」と言います。その「いつも」と言う言葉は、自分が嬉しくない時も含むでしょうか。はい、含みます。

嬉しい時、何をしますか。どんな振る舞いで、その気持ちを表すでしょうか。素晴らしいクリスマス・プレゼントを貰いましたら、どの気分でしょうか、そして、どのようにその気分を表すでしょうか。年末ジャンボー・ロッテリーに当たったら、どのようにその喜びを表すでしょうか。飛び上がって、手を打って、部屋を踊り回るでしょうか。世の終わりにイエス様がこの世に戻って、あなたが罪と地獄から救われているとあなたに伝えて、あなたを天国に連れて行くと、その喜びをどのように表すでしょうか。お墓から飛び上がって、手を打って、腕を振って、「ハレルヤ」と叫ぶでしょうか。又、その喜びが静かにあなたの心を感謝と不思議な恐れで満すでしょうか。

「いつも喜んでいなさい」と言う命令は、必要な命令です、何故ならば、私達にはいつも喜ぶ気分がないからです。飛び上がる事が出来ないのは、背中に大きな重荷が有るからです。踊る事が出来ない、いや、ただ動く事が出来ないのは、心配と問題や罪や罪の意思や失敗や負債が多すぎるからです。

拍手や手を振る事が出来ないのは、毎日の厄介ものが一杯で重くなるからです。仕事、勉強、家事、教会の奉仕、などで忙しくて、喜ぶ時間が有りません。

病気や悲しい時、神様に「ハレルヤ」や「万歳」とどう言えるでしょうか。喉が痛い時、心で泣いている時、「ハレルヤ」と叫ぶ事が難しいです。

捕らえた犯罪人のように手が縛られている時、手で拍手する事が出来ないし、自分の問題から逃げる事が出来ません。私達を縛る縄が自分の罪や自分の悪い振る舞い、自分の疑いや自分の無価値感でしょう。

又、自分の手を縛ったのは、神様だと感じるかも知れません。しかし、手がいつも縛られていたら、簡単に手を合わせて祈る事が出来ます。そのような状態でしたら、何を祈るでしょうか。まず、喜びに邪魔する物がなくするように祈りましょう:重荷、ストレス、痛み、悲しみ、罪などが無くなるように祈ります。次に、苦しんでいる他の人の為にも祈りましょう:愛する兄弟姉妹、隣人、敵の為にも祈りましょう。自分が喜ぶ事が出来るように祈りましょう。そのようにして、1テサロニケ5:17にある二つ目の命令を守る事が出来ます、即ち、「絶えず祈りなさい」と。

二つの祈りの種類があるでしょう:「お願い」の祈りと「感謝」の祈りです。「神様、助けてください、癒して下さい」と言う祈りは自然です、そして、忘れなければ、「助けてくださった、癒して下さった、ありがとう」も自然でしょう。しかし、神様に感謝する事を良く忘れますが、1テサロニケ5:18が言います、「どんなことにも感謝しなさい」と。その意味とは、「神様、癒して下さい」と祈る時、「神様、この病気を私に下さったありがとう」とも祈る事ではありませんか。どのような状態でしても、神様に感謝する事が命令されています。

それで、手が縛られている時、神様に感謝しましょう。何故ならば、それが祈るチャンスや喜ぶチャンスを与えられているからです。ですから、忙しい手の為に神様に感謝します。何故ならば、私達の毎日の仕事の中で、私達は神様の働きをするからです。体が痛い時、悲しい時、神様に感謝します。そのような時、感謝するのが難しいでしょうが、そのような時、自分の人生の中や愛する人の人生の中で奇跡を見るチャンスがあるからです。神様の愛を見るでしょうか、又、他の人の愛を見る事が出来るでしょう。又、自分の心が開かれて、自分の痛みや苦しみの中から、他の人の痛みや苦しみを見て、憐れみを持って、その人を受け入れて、慰めや親切をあげます。又、最も重い重荷の為にも神様に感謝する事が出来ます。神様は私達に私達の罪や罪の意識を見せました。ですから、私達は、感じる圧迫感の理由が分かります。その時、私達の罪を赦す為に、イエス様が十字架上で死んで下さった良い知らせを聞いて、理解することが出来ます。その時、私達は自分の重荷をキリストにゆだねます。十字架上にいる時、イエス様は私達の罪と悲しみを背負いました。そして、3日目に甦った時、彼にはその重荷がもうありませんでした。その救いの為に神様に感謝します。

聖書が命令する事を私たちが実行出来ると私達は分かってきます。即ち、「たえず喜ぶ」事です。「絶えず祈る」事です。「絶えず感謝する」事です。

ところで、クリスマスの喜びとは、この世界の事実を忘れる事ではありません。何も考えない喜びではありません。理由がない喜びではありません。喜べない理由が沢山あります。中東には戦争があり、地域の問題とプロテストもあります。家族の問題もあります。地球温暖化の脅しもあります。地震や洪水kouzuiや人間の欲張りの為に、多くの人が困っています。食べ物が充分ない貧困の中に住む人がいます。多くの人の人生の中には、ひどい淋しさとゆううつとストレスがあります。それが嬉しくない理由です。しかし、クリスマスの喜びがあるのは、このもののただ中には、その物があっても、キリストが私達と共にいるからです。クリスマスのメッセージとは、キリストによって、神様はこのようなひどい世に来られた事です。その事が私達に希望と喜びを与えます。

最後に、喜びは聖霊からの贈り物です。ガラテア5:22で、「喜び」は二つ目の「霊の結ぶ実」です。[* “霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。”] 喜びは信仰から来ます。クリスマスの時私達が信じるのは、私達人間を救う為に神様は、御自分の御子イエス・キリストを、私達のような人間に子供として送った事です。そして私達を救う為に、キリストが十字架上で死んで3日目に復活しました。そして甦られたので、約束したように、イエス様は再び来られる事を信頼します。キリストの業の為に喜びます。毎日の業も、これから将来の業もです。ですから、私達のクリスチャンの喜びは、この世の苦しみを勝利します。私達の喜びはこの世のものですないからです。永遠の救いに喜びます。

私達の聖書日課が命令するように、日曜日の礼拝は喜びと祈りと感謝で満たされています。私達の毎日の生活の中にも、同じ喜び、祈り、感謝がありますように。

クリスマスにもいつもにも、聖霊の喜びがありますように。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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