2014年9月28日
宗教の目的は何でしょうか?色々の人に聞きますと、色々な答えを聞くでしょう。ある目的や宗教の使い方は偉いですが、いつもそうではありません。なにか特別な順序があるのではありませんが、幾つかの宗教の目的をリストアップしましょう。
どうして宗教の目的が何であるかと聞く理由とは、今日の聖書日課を理解する為です。『イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」』 言い代えますと、どうして私達の宗教や私達のやり方を変えたいのですか。
「宗教」と言う言葉は何を意味しますか。私が思うのは、「宗教」とは、人間が、まことの神様に対する信仰の理解と、その神様を信じて、信仰を人生の中で活かす方法です。そして、世界中で色々の宗教があるのは、人々は色々の神々を信じるからです。例えば、キリスト信者は三位一体の神様を信じるので、クリスマスとイースターをお祝いして、神様の愛を表す人生を送ります。他方です、ヒンデュの信者には多くの神々があり、その信仰に会う多くの祭りと習慣があります。カルトには、悪の神々がありますので、その弟子達がひどい悪を行います。
それで、私達のクリスチャンの宗教は私達のキリストを信じる信仰です。イエス様の教えにしたがって生きる生き方です。今日の福音書の日課が教えてくださるように、私達はイエス様の権威を受け入れて信頼します。何故ならば、彼の権威が天から来るからです。イエス様は神様の御言葉を教えましたので、私達は、自分の人生の為にその教えに従います。そして、それは私達の宗教になります、私達の宗教的な人生になります。
聖書の中には、私達のクリスチャンとしての宗教の活動は、神様のぶどう園で働く事のようです。それで、イエス様は例え話しを話しました。
21:28 「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。29 兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。30 弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。
この例え話は私達の為にも書かれています。私達も「行くよ」と言ったが行かなかった息子のようです。私達は自分が神様を信じると言いました。洗礼を受ける時、死ぬまで、生涯神様に忠実にすると約束しました。しかし、罪を犯す時、その約束を破ります。私達は、そのユダヤ人の祭司長や民の長老達のようです。彼等はイエス様の権威とその教えを受け入れようと思いませんでした。受け入れましたら、自分達の生き方を変えなければならないからです。私達は、自分の好きな方法で自分の人生を送りたいと思います。そして、それはいつも神様の御心に従いません。
しかし、ある時、私達はその他の息子のようです。自分の罪が分かるからです。自分の人生の為にキリストの権威を認めます。彼の教え、即ち、彼の宗教は一番良いと分かります。その時、自分の思いと心を変えて、悔い改めて、神様のぶどう園に戻ります。
父なる神様の完全な権威を持って、イエス様は神様のぶどう園で働きました。良い知らせを教えました、病気をする人を癒しました、お腹が空いている人を食べさせました、そして、悲しむ人に慰めを与えました。神様の権威を持って、御自分の上に世の罪を取りました。その罪を赦す犠牲として十字架上で死にました。復活したキリストは、弟子達、及び教会に、赦しについてかたる権威だけではなくて、その罪を本当に赦す権威をも与えました。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」と(ヨハネ20:23)。そして、それは私達のキリスト教の宗教の中心になりました。
キリスト教の目的とは、罪を赦す事です。それは十字架のメッセージです。その為にイエス様がベツレヘムで生まれました。その為に死んで甦りました。その赦しは私達の生き方です。私達は他の人を赦す事が出来るので、他の人を愛する事が出来ます。神様が私達を個人的に赦して下さった事が分かるので、私達は自分でさえをも愛する事が出来、そのイエス様の愛の内に活きる事が出来ます。
聖パウロは、フィリピと言う町にあった教会に綺麗な手紙を書きました。彼らが信仰によって活きるように勇気を与えました。聖パウロの言葉は私達の為にもあります。私達は沖縄での神様のぶどう園の中に住むからです。それで、今日の使徒書の日課を読んで終わりましょう。
フィリピ 2:1–4, 14–18
2:1 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、2:2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。2:3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、2:4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
2:14 何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。2:15 そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、2:16 命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。2:17 更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。2:18 同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会