「立ち上がって、行きなさい。
あなたの信仰があなたを救った。」

2016年10月9日


ルカ17:11-19
17:11 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。17:12 ある村に入ると、らい病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、17:13 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。17:14 イエスはらい病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。
17:15 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。17:16 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。
17:17 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。17:18 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」17:19 それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

聖書の言葉を通して、聖霊は私達に語ります。その言葉をよく聞いて理解する方法の一つは、私達が聖書の中に入って、その話しの人物になる事です。それがいつも楽しい訳ではありません。何故ならば、その箇所の裁きの言葉が私達をも裁くからです。その時、自分の本当の状態が明らかになって、私達はそれを認めなければなりません。信仰告白は先ず罪の告白から始まり、助けと救いの祈りに行きます。そして、最後に、私達はその一人のらい病を患っている人のように、私達も「大声で神を賛美しながら戻って来ます。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝します。」

それでは、今日の福音書の日課の中に飛び込みましょう。イエス様はエルサレムへ上る途中でした。そこで十字架に付けられます。人々は知っているのは、イエス様には人を癒す力がある事です。それで、らい病を患っている十人の人がイエス様の所に出かけて、癒しを頼みました。『遠くの方に立ち止まったまま、17:13 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った』のです。この時点で、私達はこの話しの中に入って行きます。私達はそのらい病の一人にならなければなりません。私達は彼らの病気を自分に取らなくてもいいのは、私達一人一人には、もうすでに自分のひどい病気があるからです。それをリストアップしようと思いましたら、病気を始め、心の問題、精神の問題、経済の問題、自分の罪、周りの状態、等などあるので大変です。

私達も、イエス様から遠く離れている所に立ちます。それは、自分の病気や恥や価値が無い事を感じるからです。私達は、自分の問題を憎んで、それを変えたいと思いますが、以前からチャンジしてみて駄目だったので、自分自身でチャンジする事が出来ないと分かります。イエス様の助けが必要です。イエス様の助けが欲しいです。「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言います。私達のような乞食には、その祈りしかありません。

今日の話しには、イエス様は「あなたがたに癒しがあるように」と言われませんでした。「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われました。即ち、すぐに癒しませんでした。同じように、私達が祈りますが、祈りの答えがすぐ見えない時があります。しかし、イエス様の言葉は希望を与えます。イエス様の時代に、もし祭司がらい病人が癒されていると調べて宣言しましたら、証明しましたら、らい病の人が家に帰る事が出来ます。そして、家族は、そのひどい伝染病に対する恐れや心配がありません。イエス様はその十人に、完全な癒しの約束を与えました。そして、皆が癒されたでしょう。同じように、私達クリスチャンは、同じように私達の祈りを聞いて、私達を憐れんで、私達を助けると信じます。

福音書が言います、「7:14彼らは、そこへ行く途中で清くされた。」と。いつの間にか、皮膚の傷が治って来て、もう痛くありませんでした。その病気で、神経が駄目になった手と足が生き返ったのです。指を動かせる事が出来ました。イエス様の癒しの力を感じました。皆はそうでした。自分達を見てくださる祭司の所に、もう少し早く歩き始まったでしょう。

十人皆が癒されましたが、一人だけがイエス様の所に戻って感謝しました。先に言いましたように、私達が、この話しに飛び込む時、私達は、そのらい病の十人の一人になりました。しかし、私達はその祭司の所に行き続いた9人の一人になるでしょうか、それとも、感謝を持ってイエス様の所に戻った一人になるでしょうか。私達はそのサマリア人のようかもしれませんが、多くの場合には、私達はその9人のグルップに入るでしょう。と言うのは、私達が病気から回復しても、仕事に成功しても、それについて一同祈っても、自分の苦労や偶然や幸運の為だったと思うがちがあります。たとえば、朝から晩まで、私達の回りに起こるすべてのすごい奇跡を考えましょう。私達のすべての祝福を考えましょう。私達の祈りがなくても、神様は私達を祝福して下さいます。しかし、私達罪人は神様の御手を見ません。ですから、主の祈りを毎日祈る事が大切です。「日々の糧を今日も与えたまえ。」祈る時、この言葉が賛美になります。「天の父、毎日、昨日も今日も必要な物をすべてを下さるので、感謝します。アーメン。」

その事を悟りましたら、私達はそのサマリア人のように、イエス様の所に戻って感謝します。自分を祭司に見せますが、それを後にしますが、先ず、神様を誉めたたえ、イエス様に感謝します。その後、自分の新しい人生と義務を果たします。イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」私達にもそうです。イエス様に感謝して、神様から与えられた仕事と人生を続けます。

「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。聖書のギリシャ語では、その言葉には二つの意味があります。「癒す事」と「救う事」です。「あなたの信仰があなたを癒した」と「あなたの信仰があなたを救った」と。 イエス様は、二つとも意味しました。その人には、癒しと救いもありました。何故ならば、癒し主であり、救い主であるイエス様を信じたからです。私達にも同じです。 今の人生の為にも、来る永遠の人生の為にもイエス様は私達を祝福して下さいます。

イエス様は癒し主でしたが、同時に、彼には、この世の罪と病気と憎しみがありました。ご自分の上に取りました。預言者イザヤがこのようにそれを述べました(53章3-5節)。
53:3 彼は軽蔑(けいべつ)され、人々に見捨てられ/多くの痛(いた)みを負い、病(やまい)を知っている。
彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
53:4 彼が担(にな)ったのはわたしたちの病(やまい)/彼が負(お)ったのはわたしたちの痛(いた)みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打(う)たれたから/ 彼は苦(くる)しんでいるのだ、と。
53:5 彼が刺(さ)し貫(つらぬ)かれたのは/わたしたちの背(そむ)きのためであり/彼が打(う)ち砕(くだ)かれたのは/わたしたちの咎(とが)のためであった。
 彼の受けた懲(こ)らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷(きず)によって、わたしたちは癒(いや)された。

イエス様は神様の犠牲の子羊でした。ご自分の上に私達の罪と病気がありました。
「彼の受けた傷によって、わたしたちは癒された。」
「彼の受けた傷によって、わたしたちは救われた。」

イエス様が甦りましたので、私達の信仰が確信されたものです。イエス様には、愛と力と憐れみがあるので、私達の憐れみの祈りを聞く事が出来る確信です。ですから、今日と毎日、私達はサマリア人のようになりましょう。自分が癒されて救われていると分かるので、私達も大きな声で神様を賛美して、感謝を持ってイエス様の御前にひれ伏します。そして、イエス様の言葉が私達の耳に響きます。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」“平和を持って行きましょう。”“神に感謝。”

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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