2013年9月15日
私は小説やお話しを読む時、いつもそのストーリの一人になります。主役やヒロインになります。ミストリーを解決して、人を救う者になります。聖書の物語を読む時、私はモーセやダビデのように、その人が神様の民を導く時、その人の問題点やその悩みを理解します。しかし自分がイエス様であると決して感じません。十字架の痛みと苦しみを想像する事が出来ないからです。しかし、ペテロと他の弟子達が自分達の命を恐れる事も、復活されたイエス様を見る時の喜びを共に祝う事が出来ます。
イエス様の例え話を読む時、不思議だなと思います。ある時、一人の人、別の時、同じ例え話の他の人の事を感じます。自分の人生のその時の状態によって、聖書はその時に合う方法で私に語ります。これは素晴らしい事であると思います。
例えば、今日の福音書の日課に、イエス様は二つの例え話を話し、この二つには同じ意味があります。即ち、一人の罪人が悔い改め、イエス様の御許に帰れば、私達も神の天使達と共に喜ぶ事です。今日の例え話を読む時、自分がどの登場人物だと思いますか?。
もしかしたら: …..
又、もしかしたら: …..
要約:
いろいろの理由で、教会から離れてしまった人々が多いです。このような人々はイエス・キリストに対して「見失なわれている」のです。イエス様の時代のファリサイ派の人々や律法学者たちは、そのような人々を「罪人」と呼ぶでしょう。現代の教会の中のファリサイ派のような人は違う呼び方にするでしょう。罪深い生活ぶりや生活の状態が違う人です。まだ福音を聞いた事がない人がいますが、教会から出てしまった人もいます。
見失った人々の大きい問題の一つとは、自分が失なわれている事が分からない事です。イエス・キリストの代わりに、何か違うものを自分の新しい神々にします。それは自分の人生の目的、生きる理由になります。それで、人生の本当の真の意味を知りません。自分の人生がキリストに基づいていないので、クリスチャンの愛を始め、クリスチャンの喜びや満足、確信、希望、永遠の命の望みもありません。
荒れ野の中に迷ってしまった羊は、自分で何も出来ないので、死ぬか、殺されるでしょう。死んで命を失います。今ここにあるキリストと共にある豊かな人生がないし、希望がなく死んで、永遠にキリストから離れます。
イエス様は、見失った者を救う為にこの世に来られました。 ヨハネ10:11「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」第一テモテ1:15、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた。」(今日の使徒書。)
見失なわれた者は地獄にいます。しかし、イエス様は十字架上で死にました。使徒信条が言います、「キリストは黄泉に下りました」と。それは失なわれた人々を見つける為に、家に連れて帰る為でした。死んで甦ったのは、罪や死の中に見失った者を探し出す為に、新しい永遠の命を与える為でした。イエス様は失われた者を探して救う為に来られました。それは彼のミッションでした、そして今日も、彼のミッションは同じです。教会は今日も失われた者を探して救います。
御言葉と礼典に於いてその救いの働きをします。見失った羊と無くしたコインは、自ら悔い改めて帰りません。彼等は見つけられています。それでイエス様の信者達は伝道します。失なわれた罪人がイエス様の所に来るように誘います。実は、ファリサイ派の人々や律法学者たちの言う通りです、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と。
イエス様と出会う時、罪人は罪の荒れ野でどんなに見失ったかが初めて分かります。イエス様は彼を探し出して、救い出して、信仰によって彼を家に帰らせます。信仰があるので、絶望は希望になり、恐れは喜びになり、無意味は目的がある人生になります。これはキリストの約束にもとずいています。
この理由で天国の天使が喜びます。罪人がキリストの集会に戻る時、私達も喜びます。その罪人とは、兄弟姉妹、友達、自分自身でしょう。救いのお祝いです。
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会