聖パウロ

2014年10月5日

フィリピ3:4-14

3:4 とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。3:5 わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、3:6 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。

3:7 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。3:8 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、3:9 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。3:10 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、3:11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。

3:12 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。3:13 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、3:14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

皆は聖パウロが大好きです。聖霊は聖パウロに福音の本当の意味を啓示されました。そして、新約聖書の中で、聖霊は聖パウロを通して、私達にも福音を啓示して下さいます。聖パウロは福音的な興奮を持って書きましたので、彼の使徒書の手紙が私達の心と人生の中で活きています。

パウロはいつもキリスト信者ではありませんでした。最初は、キリスト信者達を迫害して牢に入れました。そして、ある日、パウロがダマスコに行く途中、キリストはまぶしい光の中でパウロに現れました。これは、パウロの改心の経験でした。福音を反論する人から福音を述べ伝える人に代えました。それは、私達が聖パウロが大好きな理由の一つです。即ち、彼には、完全な180度回転の改心があったからです。それで、私達には希望が与えられています、即ち、私達も自分の人生を完全に変える事が出来る希望です。教会の用語では、それが改心や悔い改めや信仰や聖化や堅信や献身などです。長い年月でクリスチャンである人も聖パウロが大好きです;何故ならば、自分が罪を犯して、クリスチャンの人生にいらいらする時があるからです。それで、聖パウロの試練と苦しみと喜びもが、私達の信仰の生活に勇気と希望を与えます。

パウロはいつもクリスチャンではありませんでした。生まれた時から自分が イスラエル人であることに誇りを持っていて、自分が救われているかどうかの疑いがありませんでした。彼の宗教のプロフィルは素晴らしくて、ユダヤ教に対して熱心があり、教会を迫害する熱心がありました。しかし、キリストと出会う時、それが全部価値の無い物、ごみであると分かりました。ごみであるのは、それら全が自分自身の事で、神様の事ではないからです。それは彼は誰であるか、彼は何をするか、自分の信仰の確信はどこであるか、どうして神様が彼を祝福するか、どうのように自分の人生の送るかの事でした。自分にある義は律法から来る義でした。そのような義ならば、神様は実に必要がありません。

私達は同じような考え方を持つ可能性があります。自分のルーツを誇る時があります。例えば、聖パウロとちょっと違いますが、私はクリスチャンの家庭に生まれ、その3週間後洗礼を受けました。教会学校に行きました、ルーテル教会の堅信式を受けました。私は神学大学に行って、聖パウロがユダヤ教に熱心を持ったように、私もキリスト教に熱心があって、特に、ルーテル教会的なキリスト教の理解の為に熱心がありました。私達皆にある一つの危険とは、自分中心に基づいて、ある間違っている確信を持つ事です。たとえば正しい教会に行きます。聖書と小教理問答書を学びました。神様のぶどう園の中でよく働きます。実際に言うと、私達は根本的に良い人です。それで、神様は私達の事で嬉しいでしょう。しかし、これは律法を守る事から来る義です。この義を得る為に、キリストは十字架上で死ぬ必要がありません。ですから、聖パウロはそのようなものがゴミであると言います。

聖書の時代、エルサレムの外にある谷を「ゲヘナ」と呼び、そこはごみを焼く場所でした。いつも臭い煙が出るので、地獄によく例えられました。新約聖書には、イエス様は「ゲヘナ」と言う言葉を使いました、そして私達はそれを「地獄」と翻訳します。聖パウロは、自分の古い考え方を、価値がない、ゴミのように思いました。そして、そのような自己的な義を捨てなければなりません;そうしないと、それは私達を連れて地獄のゴミ焼却炉まで行きます。

地獄と死の代わりに、聖パウロはキリストとキリストの復活の力を知るようになりました。このように言いました:「3:7 しかし、私にとって有利であったこれらの事を、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。3:8 そればかりか、私の主キリスト・イエスを知る事のあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、私はすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、3:9 キリストの内にいる者と認められるためです。私には、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」(フィリピ3:7-9)聖パウロはキリストを知りました。キリストの苦しみと死と復活も知りました。それはキリストの働きで、聖パウロの働きではないので、キリストの義は完全なもので、救いの力があります。キリストの「義」と言う意味とは、キリストが正しい事をなさいましたので、私達と神様との間の関係が正しい、丁度いい関係です。

10月は宗教改革の月です。毎年マルチン・ルターと共に、私達もキリストの福音を再発見します。その福音が、パウロの人生もルターの人生も変えましたので、私達の人生をも変えます。私達は、人生に、沢山のゴミを集めます:罪、後悔、恐れ、不安などです。キリストはゴミを収集する方です。御自分の上に私達のゴミを取って、地獄であるゲヘナまで持って破壊します。それが赦し、復活、救いです。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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