2016年11月27日
待降節第1主日
今日は待降節第1主日です。この次の4週間、クリスマスの準備をします。クリスマスとは、神様の永遠の子であるキリストが、この世の中に来られて生まれた事のお祝いです。神様はこの世界に来られまして、そして、今も、私達の心と人生にも来られます。それで、このアドベントとクリスマスには、平和と喜びと愛があります。 今日の福音書の日課は、待降節第1主日の伝統的な日課です。イエス様がロバに乗ってエルサレムに入城した話です。復活祭の前の主日、しゅろの日曜日で、イエス様はエルサレムに来ました。クリスマスにベツレヘムに来ました。今日は私達の教会や私達の心に来ます。
しゅろの日曜日に、人々は「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」と歌いました。クリスマスに、天使達の歌がありました。「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」キリストが私達の心に入る時、私達も歌います。季節によって、時によって、多くの讃美歌と聖歌は、イエス様を私達の心の中に歓迎します。「諸人こぞりて。。主は来ませり。」「きたりませみ子よ。」「み霊[たま]よくだり/われらの心に」。
しゅろの日曜日に、「21:8 大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。」と。赤じゅうたんを敷くようです。生まれた時、子供のキリストの為に、かいばおけに新鮮なきれいな草を敷きました。クリスマスの飾りとして、私達は緑の枝とポインセチアによってイエス様を歓迎します。
エルサレムに入城した日曜日に、皆は「ホサナ、ホサナ」と迎え入れましたが、その週の金曜日に、群衆は「十字架につけよ、十字架につけよ」と叫びました。生まれた時、天使達は歌を持ってイエス様を歓迎しましたが、ヘロデ王はその生まれについて聞いた時、イエス様を殺そうと思いました。私達は、洗礼や聖餐式を受ける時、私達はイエス様を私達の人生に歓迎しますが、私達の回りの世界はキリストを敵にして、自分の人生の中に、神様の影響を受けようと思いません。又、私達が罪を犯す時、私達はイエス様を私達の人生から追い出すようです。その時、私達は私達の回りの世のようで、聖金曜日の群衆に参加するようです。
イエス様はエルサレムに入って、十字架上で死ぬことによって私達の罪を赦す救い主になりました。クリスマスの天使は羊飼いに告げました、「2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」「イエス様」と言う名前の意味とは、「主なる神様は救う」と。イエス様が私達の心に入る時、それは私達の救い主になる為です。私達の罪から私達を救います。それは罪を赦す事によってです。私達クリスチャンの人生は、罪と赦しの格闘の中に挟まれています。しかし、聖書がはっきり教えるのは、神様の赦しが私達のどんな罪でより強い事です。そうではなければ、私達はアドベントとクリスマスと復活祭とペンテコステを祝う事が出来ません。宗教改革をも祝う事が出来ません。それで、しゅろの日曜日とクリスマスのイエス様の来られる目的が同じです、即ち、私達の心と人生の中に入る為です。
最後に、もう一つの事について考えたいと思います。即ち、3匹のロバです。
ロバに乗ってイエス様はエルサレムに入城しました。まるでパレードでした。人々はイエス様を見て、イエス様がどのような方であるか見ました。何かの勝利を持ってくる王様のようではありませんでした。素晴らしい白い馬に乗りませんでした。又、エルサレムを進入する軍隊の将軍のようでもありませんでした。イエス様は危険ではなく、安全なお方でした。ザカリア書9:9が言うようです、「「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前の所においでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」」イエス様は柔和ですし、その「荷を負い働く動物」のようで、イエス様にも重荷があります。イエス様の荷とは、私達の罪と痛みとこの世の苦しみです。その週の金曜日、ロバの代わりに、イエス様は十字架に乗ります。その十字架上に掛かれたのは、世界の重荷です。そして、3日目に、復活によって、その重荷がなくなりました、私達の罪が赦されたときでした。私達は自由になりました。
又、伝統的に、ベツレヘムまで旅をする時、マリアはロバに乗りました。ロバはマリアを運びまして、マリアは胎内でイエス様を運びました。マリアは柔和な人で、赤ちゃんを飼い葉置けに寝かせました。その日にはパレードがありませんでしたが、訪問する者がいました:天使、羊飼い、博士でした。ヘロデ王もイエス様を訪問しようと言いましたが、イエス様を殺す為に兵隊を送りました。それで、マリアとイエス様は再びロバに乗って、安全なエジプトまで行きました。
又、今日、イエス様はいろいろのロバに乗ります。私達の心に乗ります。イエス様の事を話したり、教えたり、説教したりする人はロバのようにイエス様を乗せます。即ち、私達はキリストの為のロバになります。ところで、英語では、「ろば」と言う言葉には3つぐらいの意味があります。一つは、その働物です。二つ目は、その動物のような頑固で愚かな人です。又、その動物を表す違う言葉と同じ発音の言葉は、人間が椅子に座る時の人間の体の一部です。私が祈るのは、私達は柔和な神様の僕として、イエス様を私達の心に乗せて、他の人にイエス様を運ぶように。私が祈るのは、私達が皆もっている頑固な性質を利用して、洗礼の約束に忠実にする事です。私が祈るのは、私達が椅子から立ち上がって、神様の役に立つ僕になる事です。
棕櫚の日曜日、そのロバはどう思ったでしょうか。もしかしたら、群衆は自分を歓迎して、自分の為に「ホサナ」と歌ったでしょうか。もしかしたら、ベツレヘムのロバは旅の後にお腹が空いて、飼い葉置けに寝ていた赤ちゃんを追い出して、その美味しそうな草を食べたかったでしょうか。もしかしたら、私達は教会の事やクリスマスの飾りで忙しくなって、大切なものはなんですか、だれですかを忘れるでしょうか。しかし、ロバである私達皆、頑固な怠け者の動物のようでしても、神様は私達を愛して、私達の事が必要と思います。「イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、21:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。21:3 もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」」イエス様は私達を要ります。私達はイエス様を運びます。罪の重荷や人生の重荷を持っている人がいます。介抱と解放と赦しの為に、私達はその人の所までイエス様を乗せます。
最後に、ロバには綺麗な泣き声がありませんが、私達の王様を歓迎する為に、私達は「ホサナとハレルヤ」と歌います。
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会