2015年2月15 変容主日
イエス様は親しい三人の弟子達と共に山に登りました。夜になりますと、野宿しました。そして、イエス様は弟子達の前で姿が変わりました。洋服は輝くほど白くなりました。イエス様の周りは大きな後光のようになりましたでしょう。そして、旧約聖書の二人の預言者と話しました。
彼等はこれからイエス様がする、救いの働きについて話しました。即ち、イエス様の苦しみ、死、と復活について話しました。モーセは神様の僕で、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から導いて救いました。約束の地まで連れて行きました。その後エリヤは神様の僕として、イスラエルの民を、今度、偶像礼拝の罪の奴隷状態から救う為に働きました。エリヤは主なる神様に忠実な人で、人々に救いの正しい道を教えました。それで、救い主なるイエス様が、この旧約聖書の偉大なる預言者と話すのはふさわしいでした。モーセは人々に神様の律法を与えまして、それによって人の振る舞いや信仰を支配したいと思いました。エリヤは裁きと罰を述べ伝えて、人々を正しい信仰に戻そうと思いました。しかし、二人共は完全に成功したと言えないでしょう。其れで、イエス・キリストは新しい方法で人々を救う為に働きました。その新しい方法とは、福音、良い知らせと言います。律法の罰はイエス様の上に置かれました。イエス様は新しいモーセ、新しい律法を与える者ではいませんでした。又、新しいエリヤでもありませんでした。きいびしい滅びを宣言する預言者ではありませんでした。イエス様は律法を守りましたが、律法の本当の意味を教えました。即ち、律法の本当の意味とは、愛です。それは、神様を愛して、隣人を愛して、敵をも愛する事です。
聖書の歴史を覚えましたら、人々はモーセの言葉に聞きませんでした。その金の子牛やほかの偶像を礼拝しました。モーセに聞かなかったから、40年間荒れ野を旅しました。又、人々はエリヤや他の預言者の言うことにも聞きませんでした。偶像を礼拝して、まことの神様を忘れました。エリヤに聞かなかったから、敵が彼らの国に侵入して彼らを奴隷として、アシリアとバビロニアに連れて行きました。それで、今日の福音書に、神様は三人の弟子達に注意を言いました。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」仮小屋を作ったりするノンセンスを話さないで、ペテロ達が静かにになって、大切な事を聞くように言われました。
弟子達の大きな問題の一つは、聞いて理解する事でした。イエス様は話しましたが、彼らはイエス様の話が分かりませんでした。特に難しいのは、イエス様が御自分の苦しみ、死、と復活についての話でした。まだ神様の救いの御計画を理解しませんでした。救いの為に、イエス様の苦しみが必要と分かりませんでした。死が永遠の命への道であると分かりませんでした。イエス様が本当に死んで三日目に復活する事が出来ると信じませんでした。それが分かる方法とは、イエス様に聞く事です。イエス様に聞いて、イエス様を信頼する事です。それで父なる神様は天から話しました。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
弟子達の問題は、神様の言葉に耳を傾けない事でした。実は、私達にも同じ問題があります。3つぐらいのレベルの問題です。まず、肉体的に神の御言葉を耳で聞こえない事です。それは福音を知らない事です。イエス様や神様の愛や神様の御心を知らない事です。ですから、福音を述べ伝えて、それを教える事が必要です。私達は私達の子供達に教えます。又家族に教えます。人々が教会に来るように誘います。又、説教には大きい声があれば、又、耳が遠い人が礼拝堂の前の方に座ればよいでしょう。又、上手な、面白い説教があれば、人が良く聞くでしょう。
2つ目の問題とは耳で聞いても、理解する事が出来ない事です。又、誤解する事です。もし理解しなければ、神様の御言葉は、一つの耳に入って、他の耳から出てしまいます。理解しないと雑音のようです。例えば、ベルの音を聞きますが、それが食事の準備が出来たと言う知らせだと分からなければ、食卓に来ないで何も食べません。其れで、福音を説明する事が必要です。私達の為にイエス様が十字架上で死んだ事はどう言う意味でしょうか。神様は私達を愛する事は、私達に何のかかわりがあるでしょうか。私達の為に聖霊は何をするでしょうか。福音を理解する方法とは、聞くことであり、聞く事であり、聞く事です。聖書の物語を何回も読んだり聞いたりしますと、それは私達の人生の一部になります。
そして、3つ目の問題とは、聞きますが、聞きたくない事です。それは一番ひどいです。自分がもう既に全部知るので、もう神様に聞かなくても良いと思う事です。又、聞いた事が嫌いので、聞いた事を否定します。神様の律法を聞きたくないの一つの理由は、自分が何かの罪をしたい時や、好きな事をしたいと思う時でしょう。それで、自分の良心を患わせないように、手で耳をふさぎます。自分が誰かに仕返ししたいと思う時、他方のほほを向けたくない時、また何かを盗もうと思う時に、山の上の説教の言葉は邪魔になります。そのような時、イエス様のことばを聞きたいと思いません。
しかし、イエス様に聞かなければ、誰に聞くでしょうか。悪魔やこの世や自分の罪深い心に聞くでしょう。しかし、この世はよいアドバイスを言うでしょうか。この罪深い世に生きる為に、よいアドバイスがあるでしょうか。永遠に生きる為に、悪魔やこの社会や、常識があるでしょうか。
聞く事は、ただ耳で声をキャッチする事ではありません。聞く事とは服従、従う事です。人の命令を果たす事です。お母さんは、「私に聞きますか?」と言う時、その意味とは、「私の命令を聞いてそれをしなさい」と意味します。「部屋を奇麗にしなさい。勉強しなさい」と。コーチがチームに言います。「よく聞いて。これがゲームのプランだ」と。同じように、私達が本当にイエス様の言葉を聞いたら、私達の為の命令を聞いたら、そのゲームのプランを聞きます。私達の罪の為に苦しみを受けて死ぬ御計画を聞きます。三日目に復活する御計画を聞きます。世の最後の日に再び来られて、私達に永遠の救いを与える計画を聞きます。そして、もし私達は本当に心からそれに聞くのでしたら、福音が本当に素晴らしいと分かります。それは信仰を持って聞く事です。このように聞きますと、イエス様に服従して、イエス様について行く事です。そしてどうして私達がイエス様に聞くかと言いますと、彼こそが救いと永遠の命について、経験と権威を持っているのです。彼の言葉を聞いて信頼します。何故ならば、彼は苦しみを受けて、死んで復活したからです。
神様は言われました、「これはわたしの愛する子。これに聞け。」今日、私達はそうします。
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会