2012年9月23日
イエス様には、普通の教室がありませんでした。ある時、誰かの家で、又ユダヤ教の会堂、又野原で教えました。又、町から町へ歩きながら、弟子達を教えました。昔の先生や哲学者達は、よく歩きながら生徒達を教えました。今日の福音書では、弟子達はイエス様の話を理解する事が出来ませんでした。歩きながらよく聞かなかったでしょうか、歩きながら見物していたのでしょうか、又、互いに話をしていたでしょうか。又、イエス様の話を理解する事が出来なかった理由とは、イエス様の話が理論的ではなったと思ったからでしょうか。私にはそのような事がよくあります。特に日本語の会話の中です。相手の言葉、その単語の意味が分かりますが、その人が何を言いたいかが分かりません。その人の話の背景、文化、その人の状態を知らないからでしょう。同じように弟子達は、イエス様の話が分からなっかったので、イエス様の話がナンセンスみたいでした。求道者が最初にキリスト教を見ると、理屈に合わないと思うものがあります。現代の人々はイエス様の弟子達と同じです。イエス様は弟子達に教えました、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と。もしイエス様が愛や癒しなどについて語っていたなら、弟子達は理解する事が出来たでしょう。イエス様は律法を守る事や愛の業によって律法を守る事について話しましたら、それが分かるでしょう。理解する事が出来なかったのは、どうやって、イエス様の苦しみと死が、何か良い結果をもたらすことが出来るかです。弟子達は復活と永遠の命を信じましたが、どうしてイエス様が殺されて3日目に甦るられるでしょうか。イエス様は悪魔と死に対する勝利を話しましたが、弟子達には個人的な勝利しか考えられませんでした。
個人的な勝利とは、他の人より自分が偉いと思う事です。歩きながら弟子達は、誰が彼らの中で一番偉いかを議論じ合っていたのです。神様の律法によりますと、私達は良い事をする良い人でなければなりません。これは十戒やすべての旧約聖書の律法です。しかし人間の心の罪とは、私達は他の人より尚更に良い人になろうと思う事です。それは十戒の十の戒めに対する罪でしょう。「むさぼってはいけない」と。「他の人を嫉妬してはいけない」事です。それで人々は自己中心的になって、いろいろの形で他の人より偉くなりたいと思います。より頭が良い、より金持ち、より美しい、よりかっこういい、より速い、より良い仕事、より高い給料、より良い家系、より忙しい、より元気かより病気、より人気がある人やより変な人。これは、自分の価値に対する不安です。律法を信頼する事です。律法は、私達が良い人にならなければならないと言うので、私達は良い人になりますように、いや、他の人より良い人になりたいと思います。これは隣人を自分のように愛する事ではありません。自分自身を隣人より愛する事です。
結局、他の人より偉くなりたいと言う欲望は、私達が神様よりも偉くなりたいと思う事です。神様に対する関心や隣人に対する関心よりも、自分の事を大事にします。それで自己愛は、神様を愛する事より大きいです。この地上のことばかり考えます。神様はもう大切ではないと思います。神様の律法も大切ではないと思います。自分の体と自分の心は、私達の存在の中心です。しかし、私達の肉体の体が弱くて死にますので、自分自身の上に自分の人生を建てようと思いましたら、弱い物、いや、何もないものの上に建てます。それで神様との関係を小さくしたら、自分自身をも小さくして、自分にはなにも残りません。
しかし、イエス様ご自身は無になりました。弟子達にこのように教えました、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」9:31と。弟子達はそれを全然理解する事が出来ませんでした。どうしてイエス様が無にならなければならないか分かりませんでした。しかし、イエス様の死と復活の後に、私達はその理由が分かります。私達の為にイエス様は無になりました。そのようにして、私達は神様にとって、素晴らしい者になります。イエス様は神であり人間でありました。裏切り、苦しみと死によって、イエス様は人間の一番低い者になりました。死ぬ時、御自分の上に世の罪を取って、人間に仕える犠牲になりました。しかし、それは、すべての犠牲の中で一番すぐれている犠牲でした。それで復活の時、死んで甦って再び死なない者の最初の者になりました。それで、私達はイエス様によって無になる時、イエス様と共にすべてになります。イエス様は私達の救いの為に死んで甦りました。
私達はイエス様と共に自分を低くしましたら、神様の目には私達はキリストのように高くされます。イエス様は弟子達に教えました、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」9:36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。9:37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
子供を受け入れましたら、イエス様を受け入れますので、父なる神様をも受け入れます。言い換えますと、社会的に一番低い者の為に何かをしましたら、私達はイエス様の為に何かをしています。何故ならば、十字架上でイエス様は一番低い者より御自分を低くしたのです。それで、社会的に低い人に仕える時、私達は父なる神様に仕えます。信頼の事です。私達は自分の偉さや自分の善(?)を信頼しないで、イエス様の偉いさやイエス様の義を信頼します。これは、イエス様と共にある人生です。自分の偉大さではなくて、イエス様の偉大さです。自分を誇らないで、反って、イエス様を褒め称えます。
それで、ようやくイエス様の教えを理解します。弟子達も後でイエス様の話を理解する事が出来ました。又、教会のすべての時代の弟子達である信者達は、このレッソンを勉強しました。けんそん、偉大さ、奉仕を習いました。私達皆は聖霊からいろいろの賜物やタレントや才能、いろいろの『聖霊の実』を頂きました。だれがいちばん偉いかと議論し合わなくてもいいです。だれが一番頭が良いか、誰が一番速いか、金持ちか、正しいか、又、誰が一番けんそんであるか喧嘩しなくてもいいです。今度、一番低い者を受け入れます。これは子供である場合にも、又、愛と親切が必要とする人、弱くて自分で何も出来ない人、病気の人、いじめられた人、村八分の人、罪人、恥をかけられた人、HIVの人、自分と違う人、変な人、犯罪人、自分の敵、飢えている人、貧乏、赦しが必要の人、即ち、私達の愛を必要とする人です。イエス様の名前の為にその人を受け入れます。その人を受け入れるのは、その人は誰であるか、何であるかの為にしません。ただ、イエス様がその人を受け入れるので、私達もそうします。それはイエス様の名前の為に何かをする事です。その子供のように、イエス様はこの人々を私達の真ん中に立たせ、抱き上げて祝福します。又、私達がイエス様に仕える者として私達をも祝福します。弟子達に言われた言葉が、私達にも言われます、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会