2017年9月24日
20:1 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。 20:2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。 20:3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、 20:4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。 20:5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。 20:6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、 20:7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
20:8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。 20:9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。 20:10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。 20:11 それで、受け取ると、主人に上平を言った。 20:12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』 20:13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに上当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。 20:14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。 20:15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
20:16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。《
ぶどう園の中に問題がありました。最初に雇われた人たちは上平をいいました。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは』と。それが正しくなく、いや上公平だと思いました。現代の日本の労働法では法律違犯かもしれません。しかし、ぶどう園の主人が言う通りです、『友よ、あなたに上当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか』と。しかし、その最後に来た人が同じ賃金をもらった事を見て、腹が立ちました。彼ら自身も、一日中遊んで、涼しい日陰に座って休んで、そして一時間だけ働いて、同じ一日の賃金をもらえると思ったでしょう。長い一日を働くのは、一日がもったいない、市場で遊んでいた方がよかったと思ったでしょうか。
しかし、ただ怠け者だっただけではありません。それよりも、嫉妬(しっと)したのです。それよりも、主人に対する軽蔑(けいべつ)がありました。主人は気前の良い人でした、ギリシャ語では、「良い人《でした。それに対象に、彼らの妬(ねた)み、ギリシャ語では、彼らの「悪の目《でした。嫉妬している目が悪で満たされたので、主人の良さを見る事が出来ませんでした。自分の事しか見えないので、他の人に与えた気前のようさに感心する事が出来ませんでした。
しかし、主人は彼らを「友《と呼びます。「自分の分を受け取って帰りなさい《と言いましたが、多分、その友が帰って行かないで、明日も戻ってきて、ぶどう園で働いてもらいたいと思ったでしょう。しかし、彼らの嫉妬と失望と怒りが強くて、自分が働いた分の賃金をもらって、ぶどう園から去って行って、二度と来ないかもしれません。そうしたら、主の働きを後にして、彼の気前の良さを捨てます。ぶどう園の主人とは主なるイエス・キリストです。彼の良さ、彼の気前の良さを受け入れなければ、この世俗的な世界の中で働いて、働かないと何ももらわない世界です。最後の者は最後です、最後の者は滅(ほろ)びます。ぶどう園から出ると、その労働者(ろうどうしゃ)達(たち)は神様に対して滅びます。
しかし、この上平を言う、妬む、滅びゆく労働者達にさえも、希望があります。希望があるのは、この例え話を語るお方は、最初から最後まで、いつも、本当に良い者、気前が良い者です。ほかの労働者がエルサレムにいました。主の親切と気前の良さに対して上平を言いました。その気前の良さは、病気の人を助けたり罪人を赦したりしました。イエス様を十字架に付けるのは、それが彼に対する正しい賃金だと思ったからです。それが神様の律法に従う方法だと思いました。そして、イエス様は、上平を言わないで その賃金を受け入れました。何故ならば、その為にこの世に来られたからです。そして、十字架上で、すべての罪人の賃金を受けたのです、すべての罪人:最初の者も、最後の者も、一番地位が低い者も、希望がない者もです。そして、そのような人々を救いの一番先にします。そして、復活によって、賃金の額(がく)が新しくなりました。公平的な賃金には新しい意味が与えられました。私達は自分の働きによって払われていません。天国のぶどう園では、良い事、気前の良さ、又恵みは、純粋な福音です。
福音書の言葉でイエス様は私達の所にも来られます。『友よ、あなたに上当なことはしていない』と。実は、イエス様は私達に正しい事をします。私達は、一日中働いても、一生涯働いても、救いを得る為に決して充分にはなりません。言われました、『自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか』と。私達は彼の良さに感心を持っています。感謝するのは、彼は私達に御自分の物を下ったからです。その物を得るには、イエス様が十字架上で、御自分の命の血で払ったからです。それで私達はもう一度見ます。悪の妬む目で見ないで、聖霊の力によって開かれた目で、イエス様の誠と愛を見ます。それで、イエス様はただのぶどう園の主人ではなくて、ただの雇い主やボスや奴隷監督ではありません。私達の働く分の賃金を払う会計係(かいけいがかり)でもありません。世の最後の日に、大いなるペイデイの恐ろしいお方ではありません。イエス様は私達を『友』と呼ばれますので、私達は彼を信頼します。
新鮮な目で、今度、そのぶどう園や一緒に働く人々を新しく見ます。私達は自分の働きを他の人と比べないで、他の人を裁かないで、上平を言いません。楽しく働きます。主が私達に仕えるように、私達は他の人に仕えます。ですから、信仰はいつも動きます。信仰と信頼の人生に、イエス様は私達に呼びかけます。
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会