婚宴のたとえ&婚礼の礼朊

2023年10月15日


マタイ22:1
イエスは、また、たとえを用いて語られた。22:2 「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。22:3 王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。22:4 そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。《』22:5 しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、22:6 また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。22:7 そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。 22:8 そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。22:9 だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』22:10 そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。 22:11 王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼朊を着ていない者が一人いた。22:12 王は、『友よ、どうして礼朊を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、22:13 王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』 22:14 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。《

ある王は王子の為に結婚の婚宴を催そうと思いましたが、招かれた人々は出席したくありませんでした。どうして行きたくなかったでしょうか。美味しいご馳走があったでしょう。ローストビーフ、ステーキ、飲み物、余興(よきょうentertainment)など、素晴らしいパーティでしょう。披露宴に行(い)きたくないのは、彼らはその王が嫌いと思ったからです。そして、私は彼らをあんまり攻めたくないと思います。何故ならば、その王は、冷酷(れいこくcruel)な指導者だったからです。彼らが参加しても、そのパーティを楽しむ事が出来なかったでしょう。王を恐れるので、自分が死にたくないので参加する事でしょう。その通りでした。招かれた人が来なかったので、王は軍隊を送ってそれらの人を殺して滅ぼし、その町を焼き払ったからです。ある人は丁寧に出席しない理由を言いましたが、ある人はその僕を、王に対する同じ思いを持ってその僕を侮辱しました。王の理解では、彼らが出席しない事は王に対する反抗、反逆の罪のように解釈しました。

作った食べ物が多いので、王はそれが勿体無いと思いました。実は、自分の宮殿の中に普通の人を入れたくなかったでしょう。そうでしたら、最初からその町の人々を招いたでしょう。婚宴の席は客でいっぱいになりました。悪人も善人もいました。本当に喜んで出席する客は何人だったでしょうが、最初に招かれた人々が殺されていたので、ある出席した人達は自分の命を恐れて出席したでしょうか。又、その王とその王子の事に全然感心を持っていなかったでしょうが、ただの食べ物や飲み物があったので、嬉しく行った人もいたでしょう。

そして、そこに礼朊を身につけていない人がいました。彼が可哀そうと思います。昔の習慣では、結婚披露宴のホストがゲストに礼朊を与えたそうです。そうでしたら、どうしてこの客は礼朊を身につけていなかったでしょうか。宮殿に入る時、門番がそれを与えなかったでしょうか。そうでしたら、王は僕に命令を言い、礼朊を着せるべきでしょう。しかし、客が礼朊をもらっても、王に対する侮辱や反抗の理由でその礼朊を身につけたくない場合には、自分がその披露宴から追い出される事を期待していたかもしれません。

イエス様はこの例え話の最後にこのように言われました、「招かれる者は多いが選ばれる者は少ない《と。これはこの例え話の意味でしょう。即ち、最初に招かれても、後で招かれても、自分が良い人でしても、悪い人でしても、結婚式の礼朊を身につけなければなりません。そしてその礼朊は、あなたに与えられた物で、自分で身につけなければなりません。

[この次の一部は、1523年のマルチン・ルターの説教からです。]

霊的にこの例え話を理解しますと、即ち、聖霊が私達に語っていると理解しますと、その王は神様です。王子はイエス・キリストです。花嫁は教会です。招待は福音の招きです。即ち、自分の主と救い主として神様を信じる事です。又、天の王であるあなたの神様に真実で、忠実になる事です。婚宴とは、救いであり、教会の礼拝であり、聖餐式です。ほふられた牛と肥えた家畜とは、旧約聖書の犠牲のようです。罪の赦しの為の犠牲です。即ち、イエス・キリストの犠牲で、彼の血によって、教会である花嫁が赦されて、清められています。王の僕とは、神様の所に客様を招く人々です。それは、旧約聖書の預言者や新約聖書の使徒達やすべての時代の伝道師です。そして、例え話のように神様の僕も、無視されて、侮辱されて、殺されました。何故このように侮辱されたかと言いますと、人々が教会に来るように、イエス様と彼のお嫁さんのお祝いに来るように人々に勧めたからです。

王の僕は大使のようですが、人々に殺されました。ですから、王は腹を立てて、軍隊を送ってそれらの人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払いまいた。A.D.70年ローマの軍隊はエルサレムの町を完全に焼き払いました。しかし、霊的にこれを理解しますと、神の国は、イエス様を否定したユダヤ人だけの為にではなくて、世のすべての人々の為です。僕達は町の角、町の大道りに出て行って、即ち、世の淵まで行って人々を神の国に来るように招きました。良い人をも悪い人をも呼びました。そして、私達も呼びました。

王は客を迎えようとして宴会に入りました。これは最後の裁きの日に起こります。その時、客も私達も始めて私達の王を自分の目で見ます。そして、その日、礼朊を着ていない人は、一人だけではないでしょう。多くの人々は、正しい礼朊を着ないで披露宴に入ろうと思います。その礼朊とは信仰です。私達は鏡を見て、自分が何を身につけているか見なければなりません。多くの人々は天国に入りたいと思いますが、自分のきたない、罪深い洋朊を着たいと思います。しかし、その朊が神様の目から自分の罪を隠れる事が出来ません。その着物は、自分が思う良い業、即ち、自分のイメージを表します。しかし、この良い業が信仰から来ないので、神様の目で良くありません。自分の汚い手を朊にふきます。自分の手は自分の業で、自分の足は自分の人生の歩みです。ですから王が言いました、「この者の手足をしばって、外の暗やみにほうり出せ《と。

その礼朊とはキリストの義です。神の子羊の血によって綺麗になったものです(参考、黙示録7:13,14。)。洗礼によって清められました。客として私達はこの礼朊をもらいます。即ち、キリストの赦しと義です。私達が自分でするものではなくて、純粋な信仰によります。純粋な恵みです。“Sola Fide: 信仰のみ, Sola Gratia: 恵みのみ.”

最後に愛について話しましょう。花婿と花嫁の愛です。この愛が旧約聖書の本、「雅歌《の中にお祝いされています。“歌”として、多分、ソロモン王の多くの結婚式の一つで演じされていたでしょう。この歌は、愛とその喜びについてです。花嫁は言います、(2:16)「恋しいあの人は私のもの/私はあの人のもの。《二人が愛に落ちますと、お金がなくても、仕事がなくても、未来の希望がなくても、すべての人がその二人に反対しても、彼らはかまいません。二人は愛し合うからです。花婿は、ダイアモンドや富を与えても、自分の愛を表すのに、それはけっして足りません。その二人が欲しいと思うのは、ただ、愛する相手です。キリストとその花嫁になる教会の場合もそうです。キリストは私達にすべてを与えました、御自分自身をも与えました。教会の為に死んで下さいました。教会の為に生きて下さいます。ですから、キリストの花嫁である教会は、自分の愛する者に自分の命を捧げます。何故ならば、二人が一緒にいると、祝福されて、幸せだからです。

最後に、この婚宴の客として、私達はどの贈り物を持って行くでしょうか。実は、私達は贈り物を持って行きません。私達はもうすでにギフトをもらいました。キリストである婚宴の礼朊をいただきました。私達には、末永く、永遠の救いがあります。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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Michael Nearhood, Pastor
Okinawa Lutheran Church


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