2018年8月19日
6:51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。《
6:52 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか《と、互いに激しく議論し始めた。 6:53 イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。 6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。 6:55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。 6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。 6:57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。 6:58 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。《 6:59 これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。
6:60 ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。《 6:61 イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。 6:62 それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。 6:63 命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。 6:64 しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。《イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。 6:65 そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。《
6:66 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。 6:67 そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか《と言われた。 6:68 シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。 6:69 あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。《
イエス様は言われました、「私は命のパンである《と。その意味とは、ご自分、即ち、ご自分だけが、唯一の永遠の命の源である事です。イエス様の前にほかの人がいました。モーセは荒れ野でマナを与えました。イエス様の時代には、そのファリサイの派の人や律法学者がいました。いつも律法と規定と制限を人々に食べさせようと思いました。皆は、どのように神様との関係を持って生きるか教えたいと思いました。それで、イエス様が来ました。救いがご自分だけによって神様との関係を持つ事が出来ると教えました。ユダヤ人たちはイエス様のメッセージに反対にしました。
それで、イエス様はたとえ話のように話した時、それを文字通り理解したので、イエス様をののしりました。イエス様は言われました、「6:51 私は、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。私が与えるパンとは、世を生かす為の私の肉の事である。《 6:52 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせる事ができるのか《と、互いに激しく議論し始めた《のです。「議論し始めた《と書いていますが、イエス様を侮辱したと私は思います。『食べる前に、バーベーキューしますか、それとも、刺身のようにわさびをかけて生で食べてもいいでしょうか』。十字架にかけられている時、ユダヤ人達が再びイエス様を侮辱します。『十字架から降りて来い。そうしたら、メシアとして信じますよう』と。
イエス様の弟子達の数は、12人より多いでした。 ある時、伝道の為に、70人の弟子達を送りました。しかし、イエス様がこの言葉を言われた後に、多くのパートタイムの弟子達が、いつもイエス様と共に旅をしませんでした。ご自分の体の肉が永遠の命を与えるパンであると言われた時、多くの人々がイエス様の言う意味が分かりませんでした。このように読みます:「6:60 ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。《6:61 イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。《又、「6:66 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。《 どうしてでしょうか。イエス様の事をあきらめたでしょうか。イエス様の頭がくるってきたと思ったでしょうか。ただ、もうイエス様の話しが分からないからでしょうか。又、ほかの救いへの道が欲しいでしょうか。ただ疲れたでしょうか。とにかく、その時から多くの人が自分の家にとどまりました。
その時に、イエス様は12人の弟子達に聞きました。「6:67あなたがたも離れて行きたいか《と。6:68 シモン・ペトロが答えた。「主よ、私達はだれの所へ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。6:69 あなたこそ神の聖者であると、私達は信じ、また知っています。《《
ペトロの言葉はこのような意味でしょう。『先生、別の行く所がありません。別の行く先生がいません。あなた以外に行く所がありますか?あなたに、あなただけに永遠の救いを与える永遠の命の言葉があります。私達はあなたを信じます。あなたに信じます。あなたは神様から送られた救い主、聖なるメシアであると分かってきたからです。』
私達の日曜日の礼拝の式文ですが、使徒書と福音書を読む間にはハレルヤと歌います。古い茶色の式文には、ハレルヤを歌う前に「グラジュアル《と言う短い聖句を歌ってもよいと書いてあります。毎週の聖書日課と共に決まっている聖句があります。私がアメリカの教会の聖歌隊に入った時、毎週の礼拝で、聖歌隊がそのグラジュアルを歌いました。最近多くの教会は毎週同じ聖句を歌います。その聖句は、今日の福音書の言葉です。ペトロの言葉です。
このペトロの言葉は私達の信仰告白になります。イエス様の時代と同じように現代も、イエス様の言葉にチャレンジする多くのものがあります。他の宗教を初め、哲学やいろいろの考え方があります。私達に命を与える言葉や考えやプランを与えようと思います。永遠の命ではなければ、今の人生のよりよい生活を約束します。『私に票を入れてください。お金を送ってください。この商品を買ってください。この食べ物を食べて、この薬を飲んでください。運動しなさい。意味がある人生を送ってください。』このリストに加えられるのは、この世のいろいろの宗教です。死んだ後に何かすばらしい世界を約束します。実は、キリスト教会の中にも、異端やカルトがあります。イエスキリストの福音の真理から人々を導こうと思って、嘘の約束をします。
その偽りの「良い知らせ《に比べましたら、時々、イエス様の言葉が受け入れにくいです。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。敵を愛しなさい。自分の十字架を背負って、私に従いなさい。《時々、現代の弟子達も、イエス様に従う事をやめます。もう教会に来ない、食前に祈りません。仕事や遊びや勉強があります。まことの教会の中にさえも、人は疲れます、教会の用事や会員の喧嘩や他の争いがあります。どうして人が続けて教会に通うかなと思う時もあります。
どうしてあなたが教会に来ますか。どうしてイエス様を自分の主、救い主として信じますか。ペトロのように、あなたも自分の信仰を告白する動機は何だったでしょうか。私は思う事ですが、信仰が奇跡である事です。信仰は神様からの贈り物です。人間の頭や心は神様を把握する事が出来ないでしょう。神様は人間の心、私達の心を把握する事が必要でしょう。今日の福音書でイエス様はこの事について話しました。言われました、「6:63 命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。私があなたがたに話した言葉は霊であり、命である。6:64 しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。《イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。6:65 そして、言われた。「こういうわけで、私はあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれも私のもとに来ることはできない』と言ったのだ。《《
堅信式や洗礼の準備のクラスで、私達は使徒信条を小教理問答所から学びます。第3条の説明にマルチン・ルターはこのように書きました。「問 これはどんな意味ですか? 答 私は、自分の理性や能力によっては、私の主イエス・キリストを信じることも、みもとに来ることもできないことを信じます。けれども聖霊が、福音によって私を召し、その賜物をもって私を照らし、まことの信仰のうちに私をきよめ、支えてくださることを信じます。それは聖霊が、この地上のすべてのキリスト教会を召し集め、照らし、きよめ、そして、イエス・キリストにある、まことの唯一の信仰のうちに支えられるのと同じです。キリストの教会において聖霊は、私とすべての信仰者の日ごとのすべての罪を豊かにゆるし、そして終わりの日に、私とすべての死者をよみがえらせ、キリストを信じるすべての者とともに、私に永遠のいのちを与えてくださいます。これはたしかに、本当のことです。《
言い換えますと、福音の言葉を通して、聖霊は私達に信仰を下さいます。この言葉は読められたり、歌われたり、祈られたり、洗礼式に水と共にかけられたり、聖餐式で食べられたり、説教で話されたり、お互いに赦し合わされた会衆の中で生かされたりしています。この永遠の命の言葉を、イエス・キリストの所だけにみつけられます。それで、喜びと感謝をもって、私達は聖ペトロと共に、信仰告白します。
ハレルヤ!「主よ、私達はだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。6:69 あなたこそ神の聖者であると、私達は信じ、また知っています。《ハレルヤ!
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会