“私達はキリストのぶどう園の労働者”

2023年9月24日


福音書  マタイ20: 1~16 (新38)

1「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。 2主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。 3また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、 4『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。 5それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。 6五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、 7彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。

8夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。 9そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。 10最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。 11それで、受け取ると、主人に上平を言った。 12『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』 13主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに上当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。 14自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。 15自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』 16このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。《


イエス様は「ぶどう園の労働者《の例え話を語りました。私達はキリストのぶどう園で働くキリスト信者であるので、この例え話は、私達についてですし、私達の為です。神様のぶどう園とは、神の国です。広い意味では、それはまず創造物のすべての所です。この最初の所ではすべての人間が働きます。隣人を愛する時や、神の庭園である神のぶどう園の中でアダムの管理の仕事を続ける時や、神様の呼び声に聞き従います。神の国のもう一つの意味とは、教会の中や信者の交わりの中や社会や家の中で教会の働きをする時です。ほとんどのキリスト信者は、第一の神の国と第二の神の国の中で働きますので、区別しにくいです。何故ならば、私達の働きの召命は何であっても、神の働きをしているからです。

例え話に家の主人は、朝一番、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行きました。その後にも、9時頃、昼、午後3時頃にも労働者を雇う為に町の広場に行きました。最後に5時頃に、長く働く日の第11時にも行きました。私達もキリストに雇われました。私達のそれぞれの人生の生涯の時にその呼びかけに従いました。又、私達がキリストの為にで会う時間もそれぞれです。それは、私達一人一人の年齢が違うし、経験が違うし、いつ信者になったか、いつ洗礼を受けたか違うからです。例え話のように、ある人は長い一日ずっと働きます。日曜学校の時から死ぬまでです。ある人は、仕事中昼寝をしたり、休んだり、首になったり、そして、戻って来たりします。よくあります。教会学校や堅信式や青年会の後から教会にもう通いません。そして、結婚式をしてほしい時や子供を教会学校に入れたい時に教会に戻ります。即ち、例え話のように、神様は広場に戻って行って、再びその人を呼び戻します。

イエス様の時代、仕事を探す人は、朝ごとに広場に行きます。大工さんは自分の大工の道具箱を持って行きます。雇う人が来るまでに待ちます。農業で働く人も来ますが、特別な技術 がないので、一番低い賃金(chingin)をもらいました。一日一デナリオンでした。しかし、天気が悪くなる前に収穫が必要なので、彼らの働きも大切です。同じように、私達には神様から頂いたタレントやスキル があるので、神の2つ共の国の中で働きます。

例え話の最後に、その一日の最後に、ぶどう園で働く人々皆が同じ賃金、一デナリオンをもらいます。このデナリオンは救いです、永遠の命です。一デナリオンは十分です。何故なれば、永遠の2倊でも永遠です。永遠の命より長いものがあり得ません。それで、皆が同じ一デナリオンを受ける事がふさわしいです。イエス様が言われるのは、それがぶどう園の主人の気前のよさです。神の恵みです。私達の救いは、教会の中で何時間、何年間で働いたことに基づいていません。私達の救いは、神の約束に基づいています。そして、私達の信仰はその約束を信じます。救いを得る為に、私達は十分働く事が出来ません。救いを得る為に、十分愛する事が出来ません。聖パロウはこのように書きました、ローマ6:23、「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私達の主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。《

もし人が神の国の中で一生懸命に働けば、天国の良いマンションに住めるでしょうか。ある人がそう思います。あるカルトがそのように約束します。イエス様が言われるのは、皆が一デナリオンを受けます。私が、自分の無価値を感じる時、詩篇第84篇の言葉に慰められています。「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。主に逆らう者の天幕で長らえるよりは/わたしの神の家の門口に立っているのを選びます。《84:11。

すべての信者達にその一デナリオンを与えるのはイエス様でしたら、ご自分がどこからそのお金を得るでしょうか。それを受ける為に働きましたか。キリストはどの仕事をしたでしょうか。彼の仕事とは、福音を述べ伝えて、その福音を私達に与える為に、苦しみを受けて、死んで、罪を赦して、復活する事です。例え話の中のように、彼の働きの一日が始まったのは、バプテスマのヨハネが「見よ、神の子羊です《と言った時です。父なる神様が言われる時です、「これは私の愛する子、私の心に適う者《と、マタイ3:17。仕事を更に続けて、弟子ユダが「先生、こんばんは《言う時です、マタイ26:49。言われている第11時に、仕事に呼ばれて、群集は「十字架につけろ《と叫び続けた時です、マタイ27:23。長い一日、暑い中を辛抱して働いて、救いの働きを終わりまして、「成し遂げられた《と言われました、ヨハネ19:30。彼の復活は、私達に与えられるデナリオンのようです。イエス様の尊い血が罪の赦しを買いました。私達に永遠の命を与えます。

神様の気前のよさです、神の恵みです。私達は自分の働きで、決して天国に入る為に払う事が出来ません。

仕事の中に喜びと力があります。その働きが主の為にあるからです。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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