主のみ言葉の証人としていられる幸い
有る人が、今の日本のことを、サイレントジャパンと呼んでいました。それは、平和であるとか、みんな平安な生活をしている意味のサイレントではなくて、みんな政治やその他のことに対して、不満や怒りをもっているけれど、それをどのように発散したらいいかわからなくて、我慢している静かさであるということです。つまり、近隣の国では、政治に不満をぶつけるためのデモもやる、社会に対しての不満も組合のデモなどを通して現わしている。それ自体の善し悪しはともかく、問題をはっきりとアピールできる力がある。
しかし今の日本は、そもそも立ち上がろうとする意欲さえ失われてしるのではないだろうかということでした。そういう意味において、今、サイレントであるというのは、いつまでも維持できる状態ではなく、時が満ちれば、異常な形で爆発されていく、非常に危険な静かさであるということでした。
そういった状況の中に生きる私たちは、しかし、そうは言うけれど、今のひと時を、静かに周りに迷惑をかけずにいられることに、幸いな暮らしをしていると思う面もあります。今日も人との揉め事などない、幸いな一日にあることを祈りますし、そう過ごせたことにほととするわけです。けれど、一面そう思いながら、隣の人とニコニコして挨拶を交わして一人に戻った時、心のどこかで、今ここにない何かを追求している自分、言葉を変えて言うならば、こんなはずじゃなかったのに!と思う、満たされない思いに陥るときはないでしょうか。何かもやもやしている気持ちで、しかし、立ち上がろうとしても、その術さえ見つけられなくて、本当にこれでいいのかと、不安さえ覚える時はないでしょうか。
さて、今日は詩篇1篇と福音書の日課を合わせてみ言葉を聞きたいと思います。まず、先程交互に拝読しました、週報の中刷りの詩篇1篇は、「いかに幸いなことか」と言う言葉から始まります。
詩篇は150篇までありますが、この150篇まである詩篇には、聖書全体のメッセージが含まれていると言われます。全宇宙の神の創造から黙示録まで総括されたのが、詩篇150篇の中にて語られている、聖書全体のメッセージとはなんでしょう?みなさんは何だと思いますか?
「愛している!」「私はあなたを愛している!」でしょう?「神は愛なり」と言うでしょう。「神は愛でおられる、愛そのものである」。その愛でおられる神が、旧約聖書を通して、新約聖書を通して、イエス・キリストの十字架と復活のできごとを通して、み言葉を証しする預言者や使徒たちを通して私たちに言いたいことは、「愛している!」。この一言なのです。だけど、人にはそれがピンとこない!ここに問題があるわけです。
聖書全体のメッセージを含んでいる詩篇150篇の、その第1篇の1節は、「いかに幸いなことか」という導入でもって始まります。その意味は、この神の愛を知った人は「いかに幸いなことなのでしょう!」という、神の祝福への招きの言葉であるということであります。
このことは、神を信じるの者にだけ特権として与えられている恵みだと思うのですね。私たちが何の努力もしなくても、無条件に与えられる恵みがある。しかもそれは、お金では価値をつけることのできないもの、尊い高価な恵みなのです。その恵みが、私たちの人生の歩みに先だっている。つまり、神の祝福が私たちの思いと願いとを超えて、先行している。私たちの歩みの先に幸いな道が置かれているのだから、私たちはこの中を歩むように招かれているということであります。聖書言う場合の「幸い」とはこういうことを言うのです。歩く道はいろいろあるけれど、その中から神さまが祝福しておられる祝福の道、恵みのみちを歩むように、神さまが先だっておられる。こんな私が、救いの道を歩くようにされていると言うことですね。
「いかに幸いなことか」。詩篇記者は、この招きの言葉のすぐ後に、「神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な物と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。」と書きます。
詩篇記者にも、前に置かれている道の中には、このように悪しき道もたくさんあるのだ、と言っています。神に逆らう人の計らいに従う道もある、あらゆる誘惑に誘われて、人々を欺けるようなことをして生きる道だってある。傲慢で、自分こそがと、人を鼻で動かそうとする人と一緒にいることを喜ぶ道だってあるし、実際自分こそがそうかもしてない。または、絶望に至る道だってある。けれど、その道から離れて歩む、近寄らない、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむようにして、神さまが祝福してくださる道を選び取り、その道を歩む人は「いかに幸いな人なのでしょう!」と述べているのです。
「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ」こととは、ですから、神さまを信じる信仰を持つ人には条件でもあるかもしれません。というのは、私たちは、信仰を持っていなくても、悪しき道から離れようと常に気をつけます。日々の祈りがそういう祈りかもしれません。人とのもめごとがないように、トラブルがない一日であえいますように。人に迷惑をかけないで暮らせますようにと願うわけですから、それ以上の悪しき道を歩むことなど思うわけがない。しかし、だからそれでいい人生の歩みなのか?それですべて満たされた生き方にはならないのではないのか!と、この詩篇1篇は問うているのです。すなわち、悪しき道を歩まないということは、主の教えを愛し、その教えを昼も、夜も口ずさむこと!それが、本当の、幸いな生き方ではないだろうか、祝福の道に繋がる歩みではないだろうか!と言うことであります。
私たちの教会では、18日から受洗準備クラスが始まりましたが、クラスの皆さんは、一日聖書を5章ずつ読むような課題が与えられました。もちろん、私も一緒に読みます。一日5章を読むのはとても大変なことです。朝のうちに読まないと、一日の忙しさにつぶされて、読む時間を取れない可能性だってあります。ですから、朝のうちに読んだ方がいいです。そうすると、朝読んだ聖書の言葉が、一日中頭から離れないのです。疑問があったならなおさら、それはどういう意味なのか!感動する部分だって必ずあるはずですから、聖書のみ言葉から与えられた感動をもって一日を過ごすことになるのです。私自身、何度も読んできた聖書が、今回また一緒に読みながら、新たなことを発見するわけです。
話を戻しますが、今、私たちみんなは神さまの祝福に与ろうとここに集いました。しかし、ここに集っていますが、それ=昼も夜もしゅの教えを愛し口ずさんでいる、という風なことではありません。確かに、私たちは洗礼を受けていますし、主日礼拝とその他のところでたくさん奉仕もしています。しかし、そのことが幸いではない。というのは、神さまが差別して見捨てていると言うことではありません。そうではなく、人の歩みの前に神さまは先行して歩み、祝福と恵みの道を備えておられますが、その道を人が歩かなければ、意味がないということであります。
ここは私たちが気をつけて理解したいところですが、ともすると、神の救いは人間の努力によるものではないといって、応答する人間側の義務まで怠ってしまう場合がありますが、それは間違っています。特にルーテル教会ではそう思う可能性が大きくあります。そうではなく、人には先行する神の恵みに対して応答する義務というものがあります。その応答とは、先ず行動に移す奉仕ではなく、昼も、夜も、み言葉を黙想すること、聖書を読む、祈りをする、これが第一の応答であります。これが先にあって行動による奉仕が伴われるのです。この両方がそろってこそ本当の応答の姿勢と言えるでしょう。
ですから、神さまがいくら祝福のめぐみの道を備えておられるとしても、聖書を読まない、祈りもしないで、どうしてその道を知ることができるでしょう。その道を知るためには、み言葉によって知らされなければ知る術がないのです。それは、日曜日に礼拝に来て聞く説教だけでは足りません。日々、昼も夜も、時を問わずむさぼるように聖書を読む、それによって聖書に聞く、祈ることを通して、「その人は流れのほとりに植えられた木。時が巡りこれは実を結び、派もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(3節)という祝福の状態、それこそ真の幸いな人として生きる状態へまで導かれるのではないでしょうか。
本日の福音書の日課は、四人の人が主の弟子として召される箇所です。また、イエスさまの教えと福音を聞き、病気や患いを癒されるのを体験し、聞いた人たちが、各地からイエスのところに集り、従っている様子があります。四人の弟子たちも、他の大勢の人たちもイエスに従って立ち上がった人たちです。四人の弟子たちは、自分たちの仕事をすぐ捨ててイエスの弟子となって従います。彼らに、イエスの噂がどのように知り渡っていたのか!今日の箇所から見ると、会堂で教え、天の福音を述べ伝えている、病気を癒し、患いを癒しておられるイエスの姿が述べられていますが、この四人の弟子たちにも、きっとこのイエスの姿を知らされていたのでしょう、この彼らが、その時まで営んできた仕事をその場において、直ちに立ち上がってイエスの後に従っていく。それほど簡単な事ではなかったはずです。
後の彼らのイエスに対する従い方を見てみるとき、彼らは、決して立派な人たちではありません。多くの弱さを抱えています。イエスが十字架の苦しみを負われる際には、主を知らないとさえ言って裏切るような弱い人たちでした。その人たちが、しかし今は従うことを決断していく。それは、彼らにとって今のイエスに、希望があった、ヴィジョンがあった、何か、従おうと決断できた魅力と言うものが、イエスにあったから立ち上がることができたのではないでしょうか。イエスの教えを聞き、イエスが宣べ伝える店の福音を通して、病を癒し、思い煩いを追い払うその力あるわざを通して、彼らなりに感じて、心動かされたところがあったから、だから、仕事まで捨てて従う決断ができたのでしょう。
私たちだって、彼らに負けないほど、イエスの教えや宣べ伝えられる福音を幾度も聞いてきましたし、聖書の中の病の癒しや思い煩いの癒しなど、数え切れないほそ聞いてきました。もちろん、主に従った弟子たちのように、自分にとって大切なことを捨てて、献身的に従う、ささげて従うと言うことはどういうことだったのでしょう。一時だって、仲間の意見の争いに負けまいと頑張る自分が果たして献身して従っていたと言えるのだろうか…信じていますと告白しながらも、やはり前に置かれているあらゆる道の中から、主が祝福し恵みの道として備えておられる道の区別もできずに、自分にとって損得の道ばかりを教えてきたのではないだろうか…
ルターは、この詩篇1篇の中に四回も使われている「神に逆らう者」というのを、自分ではないという風にすぐに考えてはならないと言います。むしろ、私たち自身が常に「神に逆らうも者」、『悪しき者』となることを恐れなければならない、と言うのです。つまり、悪は常に私の中にあって働いていて、何とかして神の祝福の道から外れて歩むように導くのだ、と言うのです。だから、「神に逆らう者」とは、この私自身のことであって、他どこかの誰かのことではない、と言うことであります。もしかしたら、そのような自分との闘いの道のりが、信仰の道のりなのかもしれません。
その信仰の道のりで、悪しき者である私との闘いの武器は、神の言葉しかありません。この世のどんな立派な教えも、私の中にある知恵も知識も、私を神の道からはずそうとする悪との闘いの武器にはなりません。つまり、神さまに従うということは、決して、静かで穏やかな、サイレントな状態を維持することではないということです。自分の中の悪との闘いは、苦しい戦いです。静かに闘えるはずがありません。悪をとりのけて、立ち上がって歩まなければなりませんから、時にはにこにこした挨拶もできない日もあるでしょう。しかし、その真の闘いをも惜しまない道に、主の恵みがあります。神の祝福の道が広げられるのです。「私はあなたを愛している」と神の告白がそこにて聞こえるのです。その声を聞く人は、真の幸いな人でありましょう。そして、その声が聞こえるところではじめて人は神の福音の証人として歩み始めることができるのでしょう。その道を選び取るのに躊躇しない歩みでありますように、この一年の新しい歩みが祝福されますように祈ります。
お祈りします。
私たちのいのちの源でおられる神さま
私たちは、常に、平安で、静かに、平穏な生活ができることを願い求めます。しかし、本当の平安は、自分を我慢して平穏な生活を守るところにには存在しないことをしらされています。このみ言葉を聞く私たちが、真の平和の中で、神さまの福音の証人となって歩む、幸いな者でありますように。このために、この世の価値観に安住しようとする私が、再び主の証人をして立ちあがることを求める者へと導かれますように。祝福された恵みの道がどの道なのか、み言葉に聞くことを怠ることをしませんように、私たち一人一人を導いてください。私たちの主イエス・キリストのみ名によって祈ります。
アーメン