季節の四季の中で、春のように忙しい季節もないと思います。春は、自然界が、すべて眠っていたものを動かし、いのちを活発に生かしていくための作業を始める季節だからです。土の中のものが、地上に芽を出すために一所懸命に動いています。
昨年、息子が小学校卒業記念として学校からもらってきた沈丁花を玄関先に植えておいたら、一年後のこの春に花を咲かせ、香を漂うようになりました。初めて沈丁花の香りで春を迎えることができました。あっちこっちで、地震や津波による嘆きの声が絶えない、福島の放射能の不安にさらされる中、痛々しい心で祈りが苦しかったそんなただ中、さらには真実性に欠けた宣教の危うい姿勢に問いかける中、玄関先で香る沈丁花の香りは、通るたびに、ほんのりと微笑ましさを送ってくれたような気がします。
一年前にはまだ小さかったのに、もう花を咲かして、一人前の働きをしている姿を通して、改めていのちの力強さを感じ取ったことでした。息子も着実に成長していますし、沈丁花も土の中に隠れている根っこからいのちを受けて成長しているという、自然界の神秘にふれたような感じでもありました。やはりいのちは目に見えないところにこそあるものなのだと、改めて神さまのいのちの偉大さを悟らされることもできました。
さて、イエスさまは、サマリアの地を通られる途中、井戸のほとりで一人の女性に出遭いました。そして、彼女と長い話を交わしました。このイエスさまと女性との話しは、バランスの取れない対話から始まりました。しかし、バランスはとれていませんが、二人の話しには生き生きと、生動感の溢れるものがあります。
初めは、イエスさまから、水が欲しいと女性にお声をかけました。すると女性は少し皮肉った返事を返します。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」(9節)と。この彼女の皮肉った返事には緊張感さえ感じてしまいます。こういうふうにしか返事をすることができない、歪んでしまったこの女性の関心はいったい何だったのでしょうか。
ここで、少し彼女の関心事をいくつかあげて、彼女の立場から物事を考えてみたいと思います。
彼女の関心事の一つは、人間らしく生きたいことだったのではないかと思います(7節、12節、17節)。
サマリアはユダヤの中に属していながらも、ユダヤ人から蔑視されていた町でありました。ユダヤ人たちの考え方からは、想像に絶するような人たちが暮らしている町として考えられていたからです。つまり、唯一の神信仰を捨てて、変節した信仰を持っている人たちであると、レッテルを張っていたのです。
大昔、イスラエルが北と南に別れていた時に、北の方が先にアッシリアに征服されますが、その時の北イスラエルの首都がサマリアです。そして、北イスラエルの管理職を中心に捕囚となってアッシリアに連れて行かれますし、サマリアにはアッシリアの人たちが移住してくるようになります。そんな中でもちろん国際結婚も生まれます。生活形態が変わることによって、相手の神々をも拝む状況になり、そういう状況を見て、残されていたもう一方のイスラエルである南ユダは、サマリアの民らを軽蔑するようになります。民族同士がにらみ合うようになった理由がここにあります。それ以来サマリア人はユダヤ人から偏見的な目で見られ、ユダヤ人はサマリア人を汚れた民族として見るために、ガリラヤからエルサレムへ上る際にも、決して近道のサマリアを通らない。これだけサマリアは、ユダヤ人からひどい差別を受けていたのです。
それに、当時の女性と言うのは、存在をアピールしてはならない生き方が強いられていた、影のような存在でありました。さらに、ここに登場しているサマリアの女性は、今、一緒に暮らしている男性は六番目の男性であります。この世の常識から考える時、不幸な女性でありました。そういう面で、この女性は、自分の意志とは関係なく生きなければならない、悲しい人間の姿でもあります。歴史の中心ではなく、周縁化され、人間として受けるべき当たり前の待遇も受けられない存在でした。抑圧の中で生きることを強いられているこの女性の渇き。それは言うまでもなく、人と同じように生きるという、平凡な生活だったのではないかと思うのです。特別な、お姫様になって、優雅な生活をしたいわけではない。平凡な女性として生きたい…日差しの暑い真昼間に水を汲みに来なくてもいいような、他の女性たちと同じく、涼しい時間帯に水を汲み、時には井戸場で出会った他の女性たちとおしゃべりもして、みんながそうであるように当たり前の生活を、彼女は欲しがっていたのではないでしょうか。しかし、それがゆるされていない生活です。
今、地震や津波によって、愛する、大切な家族を失ってしまった人たちの切なる願いも、この女性と同じでしょう。一緒にいる時は、互いをにらめ合い、口げんかをしたり、憎たらしいと思ったりしながら一緒にいた家族、その時を、その家族を取り戻したい。特別なことを期待しているのではない。津波が持って行ってしまった、今までの生活を求めて止まないから、今大きな苦しみの中におられることでしょう。
そして、彼女の関心事の二番目。イエスさまとの会話からみるとき、彼女のもう一つの願いは、正しく神さまを礼拝することでありました。(19-20,25節)。
その彼女と話しをして、彼女の思いを受け止められたイエスさまは、悲しい人生を生きているこの女性の心を動かします。彼女が、閉じ込められている窓のない現実から抜け出られるようにしてくださったのです。さらには、予想もできない夢のような世界へ入って行けるようにしてくださいました。イエスさまをキリストと思わせたことです。神さまを礼拝する正しい場所に対する関心がそれであります。現実によって垢じみられ、もうくたくたになった彼女の心に、神さまに仕えたいという、正しい場所で神さまを礼拝したという、偉大な心が抱かされるようになりました。これは、驚くほどの転換点にほかなりません。
聖書には、ほかにもこのような転換点に立たされた人たちがいます。一人は、旧約聖書のヤコブです。ヤコブが父と兄を騙して、長子の祝福を横取りし、家を出てハランの叔父の所に行く途中、夜、石を枕にして寝ていたときに、夢の中で神さまに出遭います。それは、家から逃げるような思いで旅に立ったヤコブにとって大きな転換点となります。つまり、これからのヤコブの行く道は、ただの逃げ道ではなく、神さまが共にいて、導いてくださる、主共におられる道になった。つまり、ヤコブは神さまに捕えられて、神さまに仕える、神さまに献げられた歩みをする歩みへと変えられたということ。人間のピンチをチャンスへと変えられ、用いてくださる神さまの働きに立たされる時、人は、転換点に立たされたことになります(創28:10-19)。
もう一人、新約聖書のパウロです。彼は、イエスさまにつながる弟子たちをつかまって牢屋に送ったり、処刑をしたりする、イエスさまを信じる人を迫害する立場にいた人でした。その彼が、その日も、主の弟子たちを捕まるために走るダマスコの途上で、いきなり目が見えなくなり、そこで主の声をきくようになります。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と言う声によって、直ちに、イエスさまを信じる人たちを迫害する立場から、イエスさまを信じて迫害される立場へ変えられていきます。見えるままにではなく、見えないところから来る主の声を聞くことから、パウロは、偉大な転換点に立たされるようになったのでした。
このような、人に偉大な転換点を与えることができるのは、神の恵みによることにほかなりません。その名前さえも知られない女性、みんなの仲間の輪に入ることもゆるされず、見捨てられ、みんなから影のような存在とされていた彼女が、イエスに出会い、今、転換点に立たされたのであります。彼女はそこで水亀を置きました。この水亀は、その時までの、彼女のあらゆる過去のシンボルでもあります。それをイエスさまの前において、キリストをこの世に知らせる、驚きの人生をスタートしたのであります(28-30)。もう日差しの暑い真っ昼間に水を汲みに来なくてもいい、ありのまま、自分らしく、みんなの輪の中に入って行っていい、今のままでいい、大丈夫!と、生きることに自信が与えられたのです。本当の渇きとは、のどの渇きではなく、魂の渇きであることを、彼女はキリストとの対話の中で悟らされたのでした。この方を、是非、人々に伝えたい。彼女は直ちにキリストを伝えるために町へ出て行くのでありました。
これを健康な信仰といいます。聞いたことを独り占めしないで人に伝える信仰。健康な信仰を持つこととは、魂の渇きを知ることだと思うのです。はじめはイエスさまの普通の願いにも皮肉った返事しかできなかった彼女が、イエスさまとの対話を通して、実は魂の渇きに気づいていく。いのちの水という、魂の渇きを潤す水が別にあることを知らされていく。
この場に、もしも、自分が、人生に対して意味を持てない、どうして生きるのか、生きる意味が分からないという思いが少しでもある方がいらっしゃるならば、それは魂が渇いたまま、満たされていない証拠だと思います。または、人の痛みが分からない、弱い立場に追いやられている人の立場から物事を考えることができない、いいえ、弱い立場に立たされている人がいるかどうかも分からないという方がおられるならば、その方も、魂の渇きを感じたことがない方なのでしょう。魂の渇きを感じて初めて人はその渇きを満たすために永遠という、人の目には見えない霊的なものを探し始めます。それがいのちの水であり、いのちのパンであり、永遠の方から与えられる無限の喜びであります。永遠のもので満たされた人だけが永遠のものを人に分かち合うことができるのです。
目に見えるものは、こうした人の魂の渇きを満たすことができません。
今、日本を最も不安の中に押し込む放射能。
キュリー夫人で有名な科学者マリー・キュリーが、治療法として開発した放射線、そして、アインシュタインによってそれがよくつかわれるために書かれた相対性理論も、その後の、成熟しない人間の貪欲によって、破滅に至らせる核兵器を作るために使われるようになりました。人間が作り上げる化学や医学といった文明は、時には優れた遺産となることでしょう。しかし、活用方向を間違えると、今がそうであるように、ブーメランになって戻ってきて、人間を破滅させる武器となることを、私たちは切実な思いで、教訓として学んでいます。そういう時でありますからこそ、私たちの信仰の目で、何を見るか、信仰の目をどこに向けるか!目に見える物を対象として信仰を養うか、決して目には見えない永遠を見、根っこにこそあるいのちに目を向けるか。
主は、お腹を満たすために買い物をしてきた弟子たちに向かってこう言われました。「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と。この食べ物を、私たちもいただこうではありませんか。私たちの渇いた魂を潤し、この世で味わったことのない喜びを味わうのです。祈ることを通して、聖書を読み、学ぶことを通して。このことは、サマリアの女性がイエスさまと交わした対話そのものであります。祈り聖書を読み、学ぶこと。
今、テレビでは有名人たちが出てきて、「日本の底力」という言葉がよく使われています。その日本の中の私たちひとり一人には、この日本の底力を超えて、キリストにあっていただいている力がある。今まで食べたことのない、永遠のものが与えられているのです。それを伝えたい。今置かれている状況から立ちあがって、希望を持って、未来を信じて歩み始められるように、それを分かち合いたい。それが転換点に立たされる人の自然な動きであります。
サマリアの女性は、転換点に立たされて、「みなさん、来てみてください」と叫びながら、人々をイエス・キリストの許へ導きました。この溢れるほどのいのち豊かさを、私たちも、特に苦しみのただ中に置かれている方々に伝えるものとして、今週も遣わされていきましょう。