春が来ていると思ったら、もう4月も半ばになりつつあります。桜が満開になりました。皆さんは花見をしているでしょうか。あまり自粛しないで、花見もしてくださいと勧められていますが、私はまだ花見をしていません。金曜日の家庭集会の際に、車の中から自衛隊の桜を眺めただけです。どうやら今年もこのまま桜の季節を過ごしてしまいそうで、少し残念です。
日本は桜の季節になると華やかになります。特に今年は、大震災の後に咲く桜が、なんともいえない雰囲気を出しているような気がします。だからみんな花見も我慢しているのではないかと思うのですが、自然災害によって被害に遭わされ、そして自然の美しさによって慰められるという、自然の力に人が苦しみにも遭い、喜びにも遭う。その自然界の何一つコントロールすることのできない人間の弱さを感じ取っているこの頃であります。
桜は咲き、華やかな季節は迎えているものの、しかし、まるで墓の中にいるような辛い思いで、この季節を過ごしている方もがいます。被災地におられる方々は、まるでお墓の中にいるような思いでしょう。過去が奪われたために先が見えない、先が見えないから周りがつかめない。心が墓の中にいるようであります。
または、被災地にいなくても、いろいろの理由によって、辛い思いの中でこの季節を過ごしている方がいらっしゃいます。そして、この場にいる私たち自身もそうかもしれません。そんな私たちに、今日はラザロとイエスさまのすばらしい物語が日課として与えられました。
イエスさまとラザロの家族とは、とても親しい関係の中にありました。イエスさまがエルサレムへ来られた祭には、ラザロの家に泊まりながら、そこでみ言葉を述べ伝えたりしていました。ラザロに二人の姉妹がいましたが、一人はマルタ、もう一人はマリアです。ところが、ラザロが何らかの病気にかかっていたようですが、聖書は、ラザロがどんな病気だったのか記しません。きっとその病気が原因だったのでしょう。イエスさまが再びラザロの家を訪れたときには、ラザロはもうこの世の人ではありませんでした。
後から訪れたイエスさまに対して、二人の姉妹はラザロが死ぬ前に来てくれなかったことを責めます。どうして、今になってこられたのかと。もし、あなたがいてくれたら弟は死ななかったのかもしれないと。二人は鬱憤をぶつけています。そのような彼女たちの訴えを受け止めながらイエスさまは、死んで葬られているラザロの墓へ行かれます。そして、墓の前に立ち、「ラザロよ、外に出て来なさい」(43節)と、死んだラザロの名前を呼んで、叫ばれるのでした。
死んで四日も墓に横たわっているラザロに向かって、イエスは「ラザロよ、外に出て来なさい」と大声で命じておられる。この叫びは、人間の常識からすれば、まるで狂った人の叫びであって、おかしい!気が変になってしまった!としてしか受け止められません。つまり、死んで四日も経っているという事実しか見えない人間の立場からすれば、理解不可能なことだからです。しかし、イエスは自分が祈り求めたものはすでに与えられていることを信じておられました。すなわち、それは何を意味するのか。それは、墓の中にいるラザロが、すでに生き返っていることを知っておられた、ということであります。
イエスがその名を呼び、命じられると、イエスが信じていた通り、死んで葬られたラザロが「足と手を布で巻かれたまま」墓から出て来ます(44節)。人間の目からみれば「死んでいた者」が、歩いて出て来たのです。しかし、イエスの目には、生き返っていたラザロが、歩いて出て来たのです。イエスは、ラザロの体を巻いている布を解いて行かせるようにと言われます。これは、ラザロが生きている者として普段の生活に戻るように指示されたことを意味します。
このイエスさまの叫ばれる姿、墓の中にいてすでに四日もたっているラザロを呼ばれる姿を、ある人は、愛する人を呼び出す人の姿であると言います。
つまり、私たちが読んでいます聖書の新共同訳では「ラザロよ、外に出て来なさい」と訳している言葉が、ほかの言葉に訳すと「ラザロ、私はここにいる、私がいるここへ出てきなさい!」と訳すことができるそうです。そしてこの呼びかけはただの命令ではなく、まるで愛する人同士で、一人が相手に向かって、自分のいるところに「おいで!こっちだよ!ほかどこでもなく私は、ここにいるよ!」と呼び出す、愛の告白でもあると言うのです。
そのような角度からこのイエスさまとラザロの物語を考えて見ますと、今まで感じたことのない、しっとりとした、暖かい人の温もりが、イエスさまとラザロ、またはイエスさまと周りの人たちの間から感じ取れないでしょうか。特に、この物語は、死んだ人を生き返らせるという、ある意味では、緊張感あふれる物語でもあれば、イエスさまの死を先取りして語る物語として、むしろイエスの十字架の死を予告している物語でもあります。それを、愛する人同士の物語、もちろん、それは男女のべたべたとした愛を言うのではなく、友のために命を与えることの美しい愛を語る物語と考えるとき、雰囲気はまったく変わってくるのであります。
そのように考えてイエスとラザロとの関係を考えて見ますと、イエスがどんなにラザロを愛しておられたのかがわかります。35節で、イエスさまは泣いておられました。墓に一緒に行ったマリアが泣き、ついてきたユダヤ人たちが泣いている、そこで、イエスさまは、心に憤りを覚え、興奮しておられ、そして、泣かれるのです。もらい泣きでしょか。いいえ、もらい泣きではありません。すぐ後の節で、ユダヤ人たちの口を通して聖書はイエスさまの涙の理由をこのように述べています。「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられるたことか」(36節)と。
愛するがゆえに、愛する者のために涙を流される方!
聖書の中で、イエスさまが涙を見せておられるところはそれほど多くありません。私の記憶では、このほかには、都エルサレムへ上られる祭に、その都がとても腐敗している、神さまの信仰から離れていることをご覧になって悲しい涙を流される場面があります。来週は枝の主日ですから、来週読まれる箇所がエルサレムへ入城なされるとろこですので、その並行箇所として書かれるルカ福音書には、都エルサレムを前にして、イエスさまはその都のために泣いたと、ルカは記します。
この都エルサレムには神さまの神殿があります。ですから、エルサレムはイスラエルの中心地でありました。人々は、毎回の祭りが行われる度に、神殿のあるエルサレムへ、何日もかけて巡礼をします。ですから、エルサレムはイスラエルの人々の心の拠り所とも言われる場所でした。その都が腐敗していた。神殿の中では祭りの収益を上げるために物や羊が売られ、献金の両替などが行われていたのです。そういう風に変わってしまった神殿の姿を見て、イエスさまは泣かれたのでした。それだけ神殿を愛しておられたのです。神殿は神さまの家ですから、その神さまの家が、み言葉が宣べ伝えられる場ではなく、人間の欲望を満足させる場となってしまったその姿に、イエスさまは、心を痛められたのです。
愛するがゆえに涙を流される!
男なら、泣くな!と言われます。男は強くならなければならないから、弱虫のように泣くな!と言われるのです。しかし、男でも、こんなときには泣いてもいいのではないでしょうか!つまり、愛するものが、むなしく、その姿を変えて、腐敗してしまったとき、神さまの言葉を宣べ伝えるべき教会が商売の家に変わり、お金を目的とした人たちの集まりへとその姿を変えてしまったときには、男でも泣くのです。生き生きと生きていた、愛する者が、死体となって、暗い墓の中に収められているような悲しい出来事の前で、その悲しみを隠さずに、泣いていいのです。男でも、誰でも、泣いていいのです。
イエスさまは泣かれました。愛するがゆえに涙を流しながらイエスさまは、その愛する者の墓の前に立ち、愛する者の名前を呼ばれます。「ラザロよ、外に出てきなさい!」と。「ラザロ、あなたを愛する私はここにいる、私がいるここへ出ておいで!」と。
墓の中にいたラザロを愛の言葉で呼ばれるこのイエスさまの、愛に満ちている姿。その姿を私たちはもう一つの書物、旧約聖書の雅歌の中から見ることができます。雅歌は、コヘレトの言葉の次に置かれている書物で、旧約聖書1049ページにあります。雅歌は礼拝の中でほとんど用いられない書物でありますし、保守的な目からみるなら、聖書の中にこのようなものを収めてもいいのかと思うくらい、男女の愛のラブストーリーのような、甘い言葉でつづられている書物であります。その雅歌の中に、今日イエスさまが、ラザロを墓から呼び出しておられるような箇所があります。2章10節からですが、お読みします。
「恋人よ、美しい人よ、さあ、立って出ておいで。ごらん、冬は去り、雨の季節は終わった。花は地に咲きいで、小鳥の歌うときが来た。この里にも山鳩の声が聞こえる。いちじくの実は熟し、ぶどうの花は香る。恋人よ、美しい人よ、さあ、立って出ておいで。」(雅歌2:10~13)
ある人は、この雅歌での恋人の呼びかけは、礼拝の中で神さまが私たちに向かって呼びかけておられることだと言います。なるほどと思いました。つまり、今日も私たちは、神さまの愛に満ちた言葉に呼ばれて、ここへ集められているのであるということ。そして、ここで、神さまがいらっしゃる神さまの家で、私たちは神さまの愛の告白を聞くのだということ。「ここへおいで、私のいるところへおいで、私はここにいる、ほかでもなく、この私がいるところに立って出ておいで!」と。
今、イエスさまは、エルサレムへ向かって進んでおられる途中で、ラザロを墓から呼び出して、生き返らせてくださいました。つまり、十字架の死を成し遂げられる直前に、愛するものの命を生き返らせてくださった。ということは、この愛する者を呼ばれる、それは、ご自分のいのちを差し出しても惜しくない、それだけ愛しているという意味が込められた叫びであります。つまり、ラザロを墓から呼び出してくださった、それは、ご自分が飲まれる杯を、ラザロに乾杯しておられると言うこと。愛する者よ、あなたの新しい命に乾杯!と。わたしが命を差し出すから、あなたは生きなさい!わたしが与える命をもって、あなたらしく、活き活きと、輝きなさいと。
ヨハネは、もう少し先へ進みますと、15章でこのように書きます。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)と。
十字架の主イエス・キリストの救いの杯が、墓の中のラザロに差し出されたように、今、墓にいるような思いの中にいる私たちに差し伸べられています。乾杯、あなたのために、あなたが生きるために、あなたに新しい命が宿るために、乾杯!救いの杯が、ほか誰でも泣く、私たちに回ってきたのであります。この杯を飲みましょう。救いの杯をいただいて、イエスさまがくださる命に生きましょう。たとえ、今墓の中にいるようであっても、その只中で生きるのです。死をも超えて生きる命の源であられる方が、私たちと救いの杯を乾杯していてくださる限り、私たちは、墓の中でも生きるのです。