先週は杉並教会の牧師就任式に行ってきました。
杉並教会は去年一年間、牧師の招聘ができなくて、招聘教会でありながら無牧を強いられた教会であります。専任の牧師がいない状態の中で、信徒たちは心を合わせて、神学校の教授たちや、引退された牧師たちの助けをいただきながら礼拝を守ってきました。もちろん、牧師たちによって説教が埋まらない週は、信徒が説教の奉仕まで担当しながら一年間礼拝を守ったわけであります。そういう苦労を乗り越えて、今年、牧師を招聘し、杉並の地にあって宣教を展開していこうとする希望に満ちた教会の姿勢は、すばらしいと思いました。杉並教会の今の喜びを分かち合うと共に、これからの宣教の上に、神さまの導きが豊かにありますように、姉妹教会としてお祈りしていきたいと思います。
今日は、枝の主日および受難主日でありまして、四旬節の最後の主日でもありますが、聖週へと入る大切な主日であります。ですから、私たちひとり一人が、どういう思いで主の受難に預かろうとしているのか。この受難の主、十字架の主の言葉を伝えるために招かれている一人であることを思う中で、み言葉に預かりたいと思います。
以前から申し上げておりますように、私たちは、何かいいものをもらうためにだけこの主日礼拝に与かっているのではありません。もちろん、福音という良い知らせを聞くためにここに集いました。また、主の祝福をいただきたくここに集いました。しかし、それが、即、家内安全商売繁盛につながるような福音でもなければ、キリスト教の祝福は、家内安全商売繁盛に留まってしまうような安っぽいものではないと言う意味で、私たちはここに何かいいものをもらうために集ったのではないと言っているのであります。
つまり、私たちは、ここで聞いた福音を伝えるために、いただいた祝福を、ここに来られなかった人々に分かち合うために招かれている!ということのほかに、私たちが招かれている理由はないと言っても過言ではありません。というのは、私たちがいただくもの、福音であれ祝福であれ、それを分かち合うとき初めて福音は福音となり、祝福は祝福となるのです。しかし、分かち合うことなく、独り占めして心に納めて、あ、今日もいい話だった、今日もいい礼拝だったと言う程度で留めておくなら、それ以上のことにはつながらないでしょう。
パウロは、ローマの教会に宛てた手紙の中で、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12:15)と書いています。つまり、その意味は、喜びは共に分かち合うとき二倍三倍と増えて行く。悲しみや苦しみは、分かち合えば分かち合うほど小さくなって行くからです。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」ということ。あらゆる事情でここに来られなかった人、または、一度も主の福音を聞いたことのない人に、聞いたことを分かち合う、いただいた祝福を分かち合う。これが教会の伝道でありましょう。ですから、私たちひとり一人は、伝道者であるのです。
話しは少し外れますが、今回の大震災は、私にとってより大切なことを学ぶ機会となりました。他者の真の姿を知らされたのはもちろん、同時に、自分自身を知る機会でもありました。私たちは、自分のことを知っていると思いがちです。自分の好みや嫌いなものも分かりますし、趣味や得意なことなどもわかります。好きな色やタイプも分かるから、自分自身についてよく知っていると思うのです。しかし、ある衝撃的なことが起きて、それに反応する自分を見て初めて、私ってこういう人だったのか、私にこういう面があったのかと、改めて自分を知るときがないでしょうか。
数日前に被災地に行かれた方から、被災地の状況を伺う機会がありました。被災地に着いたとたん、死臭に苦しまれたと言うのです。私には、そのときまでは思いつかなかった状況でした。映像を通してしか被災地を見ないのですから、匂いのことなど想像して考えることはありませんでした。死臭が放つところ。そこへ、私のような者は行けないと分かりました。と言うのは、被災地に行って何かボランティアをしたいけれど、時間の余裕がない、生活状況が許されないなど、周りの環境が奉仕することを許してくれていないと、いらいらしていたのです。しかし、死臭に苦しまれたと言う話を聞いて、生活環境が許され、時間の余裕があったとしても、私のような者はそんなことを恐れて行かないだろうと、そういう自分を知ったのです。同時にそれは、自分の傲慢な姿を知った時でもありました。話す言葉、そして頭の中で考えることと行いが一致しない自分。矛盾していて、偽善者にすぎない自分を知り、本当に苦しい数日を過しました。
先ほど私たちは詩編22編を交互に拝読しました。その詩編の7節の方で、詩編記者は自分のことをこのような言葉で表現しています。
「わたしは虫けら、とても人とは言えない。人間の屑、民の恥。わたしを見る人はみな、わたしを嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る。」(詩篇22:7)
この詩篇記者に何が起きていたのでしょうか。深い苦しみの中に置かれていることは言うまでもありません。詩編の最初の方で「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。」(詩22:2)と嘆いていることから、きっと一人ぼっちにされている苦しみに置かれているに違いないことがわかります。この言葉は、イエスさまが十字架につけられた祭に、「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」と、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれた、あの十字架上の言葉であります。イエスさまは、いのち絶えられる十字架での苦しみのとき、この詩篇記者の叫びをご自分の叫びとし、この詩篇記者が置かれた苦しい状況をご自分の苦しい状況と等しく捉えておられた、ということであります。
イエスさまの十字架上の苦しみと同じ状況に置かれていた詩篇記者。ですから彼は、きっと、その命さえ危うい状況に置かれていた、生きるか死ぬかと言う境界線に立たされていた、そういうことでしょう。なのに、その只中で、「わたしは虫けら、とても人とは言えない。人間の屑、民の恥。わたしを見る人はみな、わたしを嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る。」(詩篇22:7)と、そう自分のことを表現しているのです。私だったら、どうして私がこんな苦しみに遭わなければならないのかと、そう問いかけていることでしょう。神さまの前で、傲慢で、へりくだることを知らない。福音を聞いても、祝福をいただいても、それを人に分かち合おうとしない、独り占めして、主の福音と祝福を安っぽい恵みに変えていくような、とても貧しい信仰者の歩みをしている私は、あの詩篇記者のようには祈れないのです。
パウロは、本日読まれましたフィリピの信徒たちに宛てている手紙の中で、キリストのことをこのように述べています。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようと思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」(フィリピ2:6~7)。
神の身分である方が、僕の身分になり、人間と同じ者になって、私たち人間の間に住まわれ、苦しみを分かち合ってくださり、喜びを分かち合ってくださったと述べているのです。つまり、このキリストの姿は、私が神さまの恵みを安っぽい恵みにしてしまう姿勢とは正反対の姿であります。
このキリストが、今日、人々から歓迎を受けながら、十字架刑をくだされるエルサレムへ入城されておられます。人々は、イエスさまが通る道に、自分たちの上着を脱いで敷きました。ある人は、枝を切ってきて道に敷きました。この人たちの振る舞いは、王様がお通りになられるのを、尊敬して歓迎していることの現われです。
イスラエルの人たちにとって上着を脱いでその人が通り道に敷くということは、自分の全人生をその人のために献げて、すべてを委ねて従いますという献身のしるしであります。それだけ、イスラエルの人たちにとって上着は大切な着物でありました。
そして、今日、皆さんが手にしている枝も、エルサレムへ入場されるイエスさまの通る道に敷かれたその枝を再現するために用いています。この若枝のように、青々しく、変わることなく従いますと、心に決めて、人々はイエスさまと一緒にエルサレムへついて入城しました。しかし、一晩が過ぎて、従うと献身を表した人々は、イエスさまが、惨めな姿をして、弱々しく、ローマの権力とユダヤ教の宗教権力によって十字架刑に処されていくときに、「十字架につけろ!」と叫ぶ側の列に並ぶのでした。一晩のうちに変わってゆく人の姿。
人の献身というのは、所詮このようなものでありましょう。だからある先生がそう言っていたように、私も、受洗準備クラスの中でいつも言う言葉。洗礼を受けたら、そこがゴールだと思わないようにしてください。そこは、ゴールではなくスタートでありますと。
ともすると、私たちは、洗礼を受けたからもうすべて終わったと思って、そこで聖書の学びなどを辞める場合があります。信仰生活は、洗礼を受けた日から始まるのであって、キリスト者としての生活はそこからがスタートなのです。受洗=ゴールではない。洗礼を受けてはじめて、信仰から来る葛藤もするし、神さまが本当にいるのだろうか!と、いらっしゃることを信じて洗礼を受けたのに再び試される自分に出会ったり、奉仕する日々がむなしく感じてしまう時だって迎えたりする。そのような信仰者のいろいろの日々の歩みに、共にいて、葛藤を分かち合い、むなしさを福音で満たしながら、喜びを分かち合い、苦しみを担われる方と何度も出会って、そこで信仰者は力強いみ手に導かれていくのです。これがキリスト者の歩みであります。もし、洗礼を受けているからゴールしたと思って、何の学びもしないでいるならば、もう信仰の成長は学びを終えたときに止まってしまったのでしょう。
つまりそれは、人は、いくら「すべてを委ねてあなたに従います」と告白し、献身をしたとしても、生きる環境の中で現れるあらゆる状況によって、必ず変わるからであります。だから、私たちは、変わっていく状況に振り回されないために、聖書のみ言葉によって生きる生き方を、毎日訓練の中で営んでいかなければなりません。聖書を読む。祈りをする。そういう生活でない生活は、キリスト者の生活とは言わない。そこに、苦しみや喜びを分かち合って共に生きてくださる方に出会える場面は設けられないからです。
さらには、苦しみの中に置かれたときに、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」と叫びながら「あなただけが、私を救い出してくださる神、私から遠くはなれないでください」と、神さまの前にひざまずいて、神さまの助けを乞うような祈りはできないのです。さらには、神の身分でありながら僕の身分をとり、徴税人や罪びとたちと共に生きてくださる方こそ十字架につけられて死なれた、私の救い主キリストであることを知ることは難しいでしょう。
今日から聖週に入ります。私たちが、各々自分たちの信仰の歩みを振り返り、本当に十字架の主を救い主とし、そのみ名の前にひざまずくような歩みをしてきたのだろうか。本当は、この世の富や権力の前にひざまずく歩みをしてきたのではないだろうか。だから、毎週いただく福音や祝福を分かち合おうとせず、独り占めして、尊い主の恵を安っぽい恵みにするような生き方をしてきたのではないだろうか。自分を振り返る時として過ごしたいです。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」教会の宣教を担う一人として、この一週間を悔い改める期間として過し、主の輝く復活に与かる者でありますように、お祈りいたします。