私たちは、どういうことを通して神さまが生きて働いておられることを知り、受け止めますか。多くの人は、ただ、なんとなく、神の強い力が、自然の中に、人間の生活の中に働いていると思っていると思うのです。あるいは、奇跡というものがあるとすれば、そこに、神の力は働くのであろう、と考えているかもしれません。
3月11日の地震と津波によって大勢の人たちが尊い命を失い、今も、まだ行方の知らない人たちが八千人を越え、津波の跡は未だにそのまま、その悲惨さを私たちに訴えています。このとき、多くの人が思うことでしょう。どうしてこのようなことが起きるのだろう?先々週訪れたときにも、私には同じ疑問が湧いてきました。神さまが人間世界に対する働きかけがわからなくする状況でした。
また、今、私たちの仲間の愛する者が、病の床に横たわっている状況を見て、神さま、どうしてこんなことをするのですかと、神さまの働きかけを疑いたくなります。本当に神さまがいらっしゃるなら、こんなことなさるはずがないと思いたくなるのです。このような数々の起きてくる事の中にあって、神さまが生きて働きかけておられることを、私たちはどのように受け止めるべきでしょうか。
本日第二日課として読まれた、エフェソの地方にいる人たちに送られたパウロの手紙の中の、パウロの祈りの中でパウロは、神さまの働きかけを、唯一つ、主イエス・キリストのみを示して、表すのです。つまり、神さまの働きかけは、イエス・キリストの死と復活の中に働かれ、今もイエス・キリストの死と復活の出来事を通してなされるものであって、自然や人に直接働きかけているのではない、ということであります。
神さまがご自分を示されるときは、いつでも、イエス・キリストによって、イエス・キリストを通してであるということ。私たちはこの点に非常に気をつける必要があります。そして、それが分かるとき、人は、はじめて、そこに神さまが働きかけておられることが分かる、ということであります。
そうすると、イエスさまのうちに働く神さまの力というのは、どういうものでしょうか。イエスさまは多くの奇跡を行われました。そのことでしょうか。イエスさまは、普通の人では考えられないような、人々を愛する生活をなさいました。そこに神さまの力が働いたのでしょうか。イエスのそのような生活をこそ、神さまが働かれたという人も少なくないでしょう。しかし、パウロは、そうではない決定的な事として、先ほど申しましたように、神さまがイエスを死者の中からよみがえらせた、この事一つに尽きると言うのです。
神さまの力は、イエスの死者の中からの復活のうちに働いたのだと!それなら、やはりイエス・キリストの復活も奇跡の一つであって、だから復活の不思議さに驚きなさい、ということでしょうか。いいえ、そうではありません。そうではなく、イエス・キリストの復活が、死んだ人の中からの復活に違いないけれど、聖書が言う死人、死者とは、ただ命が尽きて死んだ人のことだけを言っているのではありません。聖書が言う死人とは、罪のゆえに死んだ人のことをも含めています。ですから、死人の中からの復活とは、人間の罪を克服された、ということであって、ただの死からの復活ではない。つまり、イエス・キリストの復活は、死に勝ったのと同時に罪に勝った、ということだと言うのです。そして、神さまの絶大な力は、この事のうちに働いたのだということであります。
その結果、何が起こったのでしょう。神さまの力がイエス・キリストの復活を中心とすることのうちに働き、人の救いをまっとうされた結果、何が起きたのでしょう。パウロは21節からこの問いかけに答えています。
「20 神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、21 すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。22 神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。」(エフェソ1:21~22)
イエス・キリストの足元にすべてのものを従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会に与えてくださったと言うのです。
時々、皆さんにご紹介していますルターの言葉を今日もご紹介させていただきたいですが、ルターがカトリック教会に対して抗議して立ち、宗教の改革が行われる中、ルターは有名な三大文書を著するのですが、「キリスト教界の改善についてドイツ国民のキリスト教貴族に与う」と「教会のバビロン捕囚」と「キリスト者の自由」の三つであります。
皆さんも、せっかくルーテル教会につながっていますから、ルターが書いた文書一つくらいは読んでいただいたらと思いますが、その中でも「キリスト者の自由」をお勧めいたします。「キリスト者の自由」は、他の二つの本と性格が違い、「本来、キリスト者とは如何なるもので、どのように生きるべきか」を率直に述べている本であります。この本の中に、以前皆さんにご紹介しました言葉あります。「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも従属していない。キリスト者は全てのものに奉仕する僕であって、だれにも従属している。」
私の大好きな言葉でありますが、この言葉はパウロの神学から生み出されたルターの神学であります。この言葉のモチベーションになったパウロの言葉がコリントの信徒たちに宛てた手紙とローマの信徒たちに宛てた手紙の中にあります。「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。」(1コリント9章19節)と「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。」(ローマ13章8節)です。
つまり、イエス・キリストがまるで見捨てられたかのように十字架の上で侮辱を受けて、殺され、よみにまで降りましたが、神の力によってそのただ中から復活させられ、いまや高い天に昇り、神さまの右の座に座っておられる。このキリストの姿を通して、このキリストに従って歩まれるキリスト者も、すべてのものの上に立つ自由な主人となって、だれにも属さない。同時に、全てのものに奉仕する僕となり、誰にも属しているような生き方をする、ということ。
今日は昇天主日であります。
昇天主日は、イエスさまが死者の中から復活なさって、四十日間地上におられた後に天に昇られたことを記念して守る主日です。しかし、主の昇天において、私たちは、ただ物理的な意味においてだけ理解するのではなく、本当に、だれも降りたがらないところに降られたかただけが、だれも昇れないもっとも高いところへ昇っていかれる、という理解の中で昇天主日を受け止めたい。そう受け止めることができるとき、この小さな私も、このキリストに倣い、だれにも属さない者として歩むと同時に、だれにも属している者として奉仕する、仕える自由な僕となりうる信仰者として歩むことができると思うからです。そして、それができるとき、奇跡とも思えるような、死からの復活が、罪からの解放が私たちの歩みの中に起きるのではないでしょうか。
私たちが告白しています、使徒信条には、「よみに降り」というところがありますが、キリストは、死んで、よみにまで降られた、と。つまりそれは、私たち人間のどうしようもない罪のど真ん中に下られたということです。もちろん、実際死んで葬られた人たちの中に降られたという意味も含めて、今、生きている人の生のどうしようもないところ、本当にそこに神さまがおられるのだろうかと疑いたくなるところ。それは、あの地震と津波によって、一瞬のうちに何もかも奪われた、その場なのかもしれない。それは、愛する家族を、一瞬の誤りによって失い、悲しみに暮れているところなのかもしれない。この世の勝手な武力の力によって、殺人や戦争が行われているところなのかもしれない。食べ物や飲み物が足りなく、飢え死にしていく人々のただ中なのかもしれない。そして今、ここに座っていても、あらゆるものを抱えて、絶望的な思いの中で、もう死んだ方がむしろ楽かもしれないと、現実から逃げようとしているこの私のよみのような中なのかもしれない。私の力ではどうしようもないそこに、キリストが降ってくださり、そのキリストに働かれる神さまの力によって、よみは復活の光に輝くのだということ。
ともすると、私たちは、高く昇りたいという思いだけが強く、そのためには姿勢を低くすることが求められることは忘れる時があります。または、高く昇りたいという思いが強いから、熱心に教会の奉仕をすることが低くくだることだと思い、一所懸命に行いをすることで自己満足するときもあります。そうではなく、キリストは、その姿を見えなくしてもっともに低いところに降られる方でありますから、高く昇るのもその姿を私たちに見せません。私たちは、このキリストの姿においてのみ、自分の歩み方を見出すのです。人に見せつける奉仕ではなく、隠れたところで見ておられる神さまの前を歩む者として仕える自由な歩みをしてゆくのです。
動物たちは、どこか高いところに飛びたいときには、出来るだけ姿勢を低くして、飛べる力を養います。高いところの餌をとるために、徹底して地面にくっつくほど姿勢を低くするのです。家の中にいる猫さえも、高いところに登りたいときには、べったりと姿勢を低くしてから飛び上がるのですね。これは、生命体の法則のようなものでしょう。登るためには、低くくだらなければならない。ですから、別に特別なことを要求されているのでもないのかもしれません。
私たちも、低く降ることに恐れを抱かない。躊躇しないで、だいたんに低く降り、死人のようにされた状況へまで降ってゆき、そして大胆に高く上げられるのです。罪の奴隷のようになって縛られたどん底から、キリストを通して働かれる神さまの力によって高く上げられるのです。私たちが主としてあがめ、従う主イエス・キリストのゆえに、それが可能だというのです。
キリスト教の教理の違いや神学の違いを乗り越えて、人の苦しみや悲しみの深いところに降りて、いのちかけて奉仕しておられる主イエス・キリストの働きに、この教会が、そして私たち一人ひとりが、用いられていきたいです。