皆さんの中には韓国ドラマに夢中な方もいらっしゃると思いますが、その中で「チュモン」という時代劇を見たことがありますでしょうか。「チュモン」を見ていますと、主人公も格好いいですが、もう一つ、その中には、天地神明という神から神託を受けている女の人が王となる人を導くストーリが描かれています。
このドラマを見て、昔ながらの韓国人の信心というものを改めて考えさせられました。そして、人たちの暮らしの中にある、天におられる方へ赴く心と言うのは、宗教を越えて、同じであることにも気づかれました。なぜならば、聖書の中に描かれる預言者と王様との関係も似ているからです。まだ起きていないことを予め悟り、それを王様や民らに告げる働きをするのが、聖書の預言者の働きでありました。この預言者の働きの領域は、どんなに権力や富をもっている王様でさえも立ち入りできない領域であります。
本日は、三位一体主日でありますが、この日に選ばれている旧約聖書は、イザヤ書6章1~8節です。この箇所は、イザヤが主のしもべ、預言者としての召命を受けるときのことが記されているところです。
イザヤは神殿の中で不思議な状況に包まれています。彼は、一般の人が顔と顔を合わせて見たときには必ず死ぬと言われていた、主の顔を、顔と顔を合わせて見てしまいました。神殿いっぱいに広がる裾をして、主は高く天にある御座に座っておられた、その方を見てしまったのです。そして、六つの翼を持つセラフィムが、互いに呼び交わして「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」と唱えている。このセラフィムたちの呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされたと。
これは、イザヤが見た霊的世界で、イザヤは当時の現実の時代背景をもちゃんと記しています。イザヤが召命を受ける年はウジヤ王が死んだ年であると。ウジヤ王とはユダ王国の第10代目の王で、紀元前783-742年までユダ王国を治めていた王様です。一六歳で王の座に座り、五二年間という長い間国を治めていました。彼は、悪い王ではなかったのですが、しかし、民らが偶像崇拝を行っていることを知っていながらも、それに対して何の対策も行わず放っておいたことが決定的な過ちになります。そして、彼はついに、祭司だけに許されている祭壇の香を焚こうとしたことで神の怒りを買い、その罰としてらい病にかかり、死ぬまで隔離されていたと。そして、彼の墓が見つかったときにそのお棺のふたには、決してあけてはならないと書かれていたそうです。
ウジヤ王に次いでユダ王国の王になったのは、ウジヤ王の息子ヨタムでした。彼は、父親と同じように政治は誠実に行っていましたが、民らが偶像崇拝を行うことをやはり、止めることをしませんでした。イザヤは、この王ヨタムの時代に活動することになりますが、民らが偶像礼拝を行うことに対して、イザヤは一所懸命に告発します。もちろん、王様にも、民らをこのままにしておいてはならないと訴えます。しかし、王はイザヤの声に耳を傾けようとしない反面、ヨタム王の政策は、他の国に勝つための力を備えることに一所懸命でした。備えた分だけ、戦いに勝利して、ユダ王国は銀や小麦、大麦でいっぱい、豊かな国となります。唯一神への信仰が失われ、他の神々を神として拝む中で、国が経済的に潤っているとしても、それは、本当の豊かさとは言わない。
結局、ユダ王国もバビロニアによって国が滅亡され、王や貴族らは捕虜となってバビロニアに連れて行かれ、もはやイスラエルという国は地上に存在しないかのようになりました。
みなさん、私たちは旧約聖書の歴代誌や列王記を読んでいる限り、イスラエルの歴史を十分知ることができます。ですから、聖書を読むように心かけてください。
イスラエルが二つの国に分かれるのは、イスラエルの第三代目の王ソロモンが死んでからすぐ、ですから紀元前一〇世紀頃に国は二つに分かれて生きます。片方は北イスラレエル、片方は南ユダです。南ユダは、エルサレムを中心にほんのわずかな面積しかありません。とても小さな王国でした。そして、北イスラエルが先にアッシリアに滅亡され、その後、南ユダがバビロニアに滅亡されるようになります。
北イスラエルでも、南ユダでも預言者たちは、時代状況を問わず活動していました。真実の神の言葉を語り、国があまりにもこの世的なものに頼りすぎて、王の政策が唯一の神の信仰のもとで行われていないことを知るや否や、預言者たちは立ち上がって、訴えていたのです。しかし、すぐ目に見える繁栄をあきらめて、それよりもっと豊かであるとしても、目に見えない神のもとへ立ち返ることはなかなか難しいことです。
三位一体主日にイスラエルの歴史の学びをしているようですが、しかし、このことは私たちにとってとても大切なことであると思うのです。
というのは、私たち一人ひとりは、イザヤのように、今生きている時代背景を背負って信仰者として、霊的な糧を養っていただいています。つまり、伝道するためにこうして、ここへ招かれているのです。それだけ、私たちは、自分のことをもう少し過大評価してもいいと思うのです。つまり、今、この時代の過った政治や社会構造などに対して公に「イエス」を言い、そして、「ノー」を言える者とされていることに自負心をもったらいいと思うのです。
けれども、今の自分を振り返ってみましょう。本当に国の政治や経済、社会の構造悪や民らの訴えに対して、キリスト者の立場から「イエス」や「ノー」を言える立場にいるのだろうか。この頃の政治家たちのやり方を見ていると、本当に飽きてしまって、どうしてあんなに頭の回転が鈍いのだろうと思うくらいいらだちます。いらだって、そこであきらめてしまうのです。
というか、政治や社会の腐敗に対して告発するより、むしろ自分自身が、人生に疲れている、くよくよと悩めることが次から次へと起きてきて、外へ向けて歩み出そうとした生き方がなかなかできないのです。しかし、そうではなく、私たちは、イザヤがそうであったように、神殿の高いところに座しておられる方を見上げなければなりません。昔は、顔と顔を合わせて見た人は死ななければと言われた神さまは、今は、自ら私たちのただ中に降りてこられ、私たちに介入してくださっておられるのです。対面したら死ぬどころか、死にかけている私たちを助けて、ご自分の命を差し出してまでも私たちが力強く生きることを支えてくださっているのです。なのに、私たちは、逆に、その方を自分から高いところに追いやって、もう見えなくなってしまったと、私からは離れてしまったのだと、むしろ、絶望していたりはしないでしょうか。
先ほど読まれました福音書、マタイによる福音書28章で、弟子たちは、イエスさまから地上最大の命令を受けています。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にし、彼らに父と子と聖霊のみ名によって洗礼を授けなさい」(19節)。これが弟子たちに与えられて地上最大の命令であります。つまり、地の果てまで伝道しなさい、ということであります。
ここで使われている「父と子と聖霊のみ名」という神の名は、私たちが信じている神さまの名であります。他の宗教でも「神」はおられる。けれど、私が信じる神は「父と子と聖霊なる神」だと答えられるようにしてください。
ということは、私たちはこの神さまに呼び出されているのです。そして、この神さまに派遣されている。毎日、朝起きるときも、毎週、こうして教会に来るときも、日々の生活の中で人と出会うときも、いつもともにいてくださる父と子と聖霊なる神さまに導かれている。そして、この世での歩みを終え、御許へ帰るときも、私たちはこの父と子と聖霊なる神さまに呼び出されて、帰るのです。
しかし、今は、ここにいる。この世へ、まだ神さまの名を知らない人たちのところへ、出て行って、み言葉を伝え、父と子と聖霊にみ名によって洗礼を授け、イエスさまから教えられたことをすべて教えるために、そのための力を養うためにここにいるのです。ですから、私たちは出かけていかなければなりません。
それでは、どのようにしてわたしたちは出かけていけるのでしょうか。
今日、私たちは、コンサートを行います。これも一つみ言葉を伝える機会なのですね。これは一つ、み言葉を伝える方法だと思うのです。コンサートの準備をする段階は、み言葉を伝える準備をする段階なのですね。音楽だけを伝えようとしているのではないのです。自分をアピールしようとしているのではないからです。この音楽を通して、この賛美を通して、こられた人が少しでも慰められたらいいな。少しでも心に平安が訪れたらいいな、というふうに準備をして今日を迎えられたことですから、それこそ伝道していることではないでしょうか。また、こられる方々を迎え入れるために食事の準備やいろいろの準備に当たることも、み言葉を伝えるための準備をしているのだと、私はそう思います。これらの働きが合わせて、一つ、父と子と聖霊のみ名によって洗礼を授ける、天の命のみ史にもう一人の名が記される業へつながっていくのです。
イザヤは、神殿の中で不思議な光景に与り、「誰を遣わすべきか。誰がわれわれに代わっていくだろうか」という主の声を聞くようになります。その時イザヤは答えました。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と。これは、旧約聖書バージョンの地上最大命令であると、私は思いました。
今日、私たちもこの主の声を聞きました。
地震と津波の被害によって、日本の国民が傷だらけになっているこの時代、政治家は、この苦しみに置かれている人々を省みるより自分の立場ばかり主張しているこの時代、「誰がわれわれに代わっていくだろうか」と言うみ声に、私たちは「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と答え、立ち上がって行きたい。遣わされていきたいです。絶望に陥れられている人々の心に光を灯す、預言者的な働きに遣わされていきたいです。