わたしは絵が下手で、あまり絵を描きたいと思いませんが、小さい頃、小学校の宿題でよく家の風景を描いたことを覚えています。夏休みが終わると、みんな大体似ている絵を描いてきますが、またはみんな集まっていっしょに絵の宿題をしますから似ている絵になってしまうのですが、絵の中には、家があり、サイドに大きな木があり、庭の隅には犬小屋があったりします。
この頃、何気なく描いていた家の書き方がおかしいと気づかされました。
皆さんは、家を描くときどちらから描きますか。私は屋根から書いていました。何も考えずに屋根から描いていたのです。しかし、考えてみると、家を建てるとき、屋根から建てることはありえないことですよね。まずは家の基礎をおき、その上に柱を立て、それに梁を置いて最後に屋根をつくります。どんなに有能な建築家であっても、屋根から家を建てることはできません。このことに気づいて、恥ずかしくさえ思いました。
このことを、この頃、愛するものを失って悲しみ、その悲しみを神さまへの信頼へ結び付けて耐え忍ぶ仲間たちの姿を通して知らされたのです。突然、愛する者を失う絶望的な状況の中で、唯一、神さまにすべてを委ねられる人の神さまとの信頼関係を見て、自分の人生そのものが、屋根からばかり描こうとしてきた人生だったのかもしれないと気づかされたのです。キリスト者であるとは言うものの、上に神さまの名で屋根作りをしているだけで、自分の信仰の基礎が、本当にイエス・キリストになっているかどうかわからない。イエス・キリストではなく自分自身の強い自我が基礎となっていて、その自分が神さまという屋根のもとで常に安住しようとしているのではないだろうか。宣教のために出かけていかなければならないのに、神さまという屋根の中に隠れていく自分がいる。もしかしたら、依存型信仰というものを信仰だと勘違いしていたのではないかと、悟ったのであります。
今日は、このようなことを念頭に置きながら、旧約聖書の日課でありますホセア書とマタイによる福音書の両方からみ言葉を聞いていきたいです。
ホセア書なのですが、ホセアが預言者として活動していた時期は、先週お話しましたイザヤより少し前の時代のウジヤ王の時代でありました。イスラエルの民らは神さまとの関係を、建前の関係としてしか捕えようとしませんでした。十戒の第一の戒めを破り、偶像崇拝を行っていたのです。先週もお話しましたが、ウジヤ王はこのような民たちの信仰行為に対して、何の政策も取りませんでした。その民らの姿の前で神さまはこのような言葉をつぶやかれるのです。
「わたしはお前をどうしたらよいのか。」
「エフライムよ、わたしはお前をどうしたらよいのか。」「ユダよ、お前をどうしたらよいのか。」(6:4)
この問いかけの背後にある神さまの思いを探ってみますと、民たちが真心から悔い改めないから、神さまは助けることができない、とても遺憾であるという思いがあることを察することができます。
けれども神さまだったら、民らが気に入らないことをしていたら懲らしめてやればいいのにとか、偉大な力を用いて民らがまことの道へ戻ってくるようにすればいいのにとも思いたくなるわけです。それは、仲間が愛する者を失いつつあるそのときも思いました。神さまが奇跡を起こして、この病の床から起き上がらせてくださらないのかと祈りもしました。
しかし、イスラエルの民の状況を目の当たりにしながら、神さまは悩まれるのです。「わたしはお前をどうしたらよいのか…」と。
これが、わたしたちが信じる神さまのお心なのですね。自ら悟り、悔い改めて帰ってくるように、待っておられる、けれど、決しては離れずに向かい合ってくださっているのです。
神さまは、このようなご自分の民らの状況をこのように表現しておられます。「お前たちの愛は朝の露、すぐに消えうせる露のようだ」(6:4)と。
つまりこのことは、悔い改める雰囲気はつくっているけれど、姿勢としてはまったくなっていない。というのは、基礎から描くことを考えずに、屋根から家を描いておいて、そして、そのままそこに安住しようとする姿にほかないと。家の屋根を素晴らしく描いておけば、下は自然に描けそうになります。先ずは雰囲気作りをしておけば、なんとなくかけたような気になるのです。このような状況を神さまは嫌っておられるということなのです。だから、「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」(6:6)と。
皆さんも昔のイスラエルの祭儀のやり方を想像できると思います。ユダヤ人たちは、何らかの罪を犯したときには、その犯した過ちに応じて献げるべきものが決まっていました。特に、動物を献げることがありましたが、動物に自分の罪を負わせて殺して祭壇の上にささげます。祭壇の上は赤い動物の血で塗られるようになり、その血が人の罪をあがなうと考えられていました。
ところが、そうすることによって人は、何か悪いことをしたら、それに応じてささげ物をすれば犯した過ちは許され、その結果として負わなければならない罪もなくなると考えるようになります。あまりにも簡単に罪のあがないをしてもらうことができるのです。結局、心から反省するとか、悔い改めることをしなくても、決まったささげ物さえ献げれば罪は赦されると思うようになる。ですから、このことは、神さまと人間との関係の中で赦し赦されるというのではなく、自分の行う行為に満足し、自己正当化する信仰のあり方をもつようになったのであります。つまり、悔い改めるという雰囲気はつくるものの、決して悔い改めていないということであります。人間の努力によって、悔い改める準備を整えた敬虔な雰囲気には留まっているだけであるということ。
「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」という神さまの怒りは、このような行いに対する怒りでありました。
このような雰囲気の中には、地面に硬い基礎を置くような、神さまを土台として人生を営むための力は養われないのであります。ですから、このような準備段階に留まって、そこで自己正当化して満足していることは、むしろ神さまの怒りを招くようなことであって、決して神さまからの恵みが与えられるような立ち方ではない、ということ。
そして、そのことを平気で繰り返しているのが、自分だったりしないでしょうか。私は自分自身のことだと思いました。それなのに、その自分が今ここにいるのです。敬虔さを作り、悔い改めるような雰囲気作りばかりをしている自分が、神さまの怒りに曝されて、とっくに見捨てられ切り捨てられるはずのわたしが、今ここにいるのです。そして、神さまの恵みに与ることさえ赦されている、神さまの祝福に与ることだって赦されているのです。なぜなのでしょうか。
それは、イエス・キリストのゆえに。たったこのお一人、イエス・キリストのゆえに、悔い改めなどしてもいないのにしたふりをして、敬虔な降りをしているこのわたしが、見捨てられずにここに招かれているのです。
今日、イエスさまは収税所に座って、人々から税金を集めていたマタイを呼ばれました。「わたしに従いなさい」と。
マタイは、人々から税金を集める徴税人です。ですから彼は、罪びとと呼ばれていました。徴税人や娼婦としての仕事をもっている人や、何らかの病気にかかっている人たちは、当時は罪びとと呼ばれていました。その罪びとを、イエスさまは、「わたしに従いなさい」と招いておられるのです。
なぜイエスさまはマタイという徴税人を仲間として招いておられるのでしょうか。それは、「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」と言われる神さまの言葉を、神さまの憐れみ深い愛を、イエスさまは実践された方であられるからです。憐れみ深い神の愛に生きられた方。ですから、マタイのありのままの罪人として招いておられる、ご自分の弟子として招かれたのです。
つまりこのことは、その人のありのままの姿を受け止めておられるということ。徴税人マタイ、罪人マタイをありのまま受け止めておられるということであります。このような神さまの憐れみに富んだ愛を、屋根から家を作ろうとする私のような者が、どうやって実践することができるでしょうか。献げ物でもって神さまと取引をしようとするこの自分が、どうやって神さまの憐れみ深い愛を知ることができるでしょうか。あの人はこのように変わらなければだめだとか、この人はあのように変わらなければ相手にしたくない、というような条件付でしか向かい合うことを知らない。これは、その相手を愛しておられ、その相手のありのままで受け止めておられる神さまと取引をしようとする姿勢にほかないのです。
イエスさまは、マタイを呼ばれただけではなく、他の大勢の徴税人や罪人と呼ばれる人たちとともに食事をなさったりして、一緒におられました。徴税人や罪人の群れの中で暮らしておられたのです。そして、徴税人や罪人らのために、十字架の上でいのちまで差し出してくださいました。自分たちの力ではどうしようもない、深い罪のただ中におかれている人たちを愛し、その人たちが生きるようにご自分が死んでくださったのです。ご自分が、徴税人や罪人の生きる土台となり、柱となり、梁となり、屋根となってくださったのです。私たちは、このイエス・キリストという家に暮らしたい。イエス・キリストが土台となり、柱となり、梁となって屋根となってくださったこの丈夫な家を信仰の家として留まりたいのです。敬虔な物であるかのような真似をするのではなく、悔い改める雰囲気だけを作って終わるのでもなく、悔い改めて敬虔な本物の信仰者となって、罪人であるこの私を招いてくださる神さまの憐れみ深い愛に感謝して、仲間をありのまま受け止める、その愛に生きる者でありたいです。