最近、聖書を読む運動が私たちの教会の中で起きていることに、とても嬉しく思います。一人で読んでいて理解できなかったものがみんなと読むことによって理解できたり、または、あの時はわからなかったことが、時間を置いて、今読んでみると気づくようになったりするとうのが聖書の言葉なのですね。ですから、おりがよくても悪くても、キリスト者はみ言葉を夜も昼も口ずさむこと。これに尽きると思います。
今日私たちは、先週に続いてマタイ共同体の福音書10章から聞いていますが、遣わされる弟子たちのために心構えが述べられるところです。この心構えは来週も続けて言われるわけですが、この10章~11章1節までの中に大切なことが隠されていることに気づかされました。
イエスさまは弟子たちに、《帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。 旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。》(10:9~10)と言われましたが、本日の福音の初めの方では、《わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。》(16節)と、厳しい命令の後に、弟子たちのことを心配しておられるのです。ここに、イエスさまが弟子たちの心構えをさせておられる、その中に隠されている大切なことは何か!それは、10章の最後の方に続く11章1節にはこのように書かれているみ言葉から分かります。《イエスは十二人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された》(11:1)つまり、イエスさまもご一緒に弟子たちの宣教の現場に出かけておられることであります。
このイエスさまの姿。
この姿を私たちはどこかで見たことがありますが皆さまは覚えていらっしゃいますでしょうか。旧約聖書の創世記3章の神さまの姿にあります。
創世記3章は、私たちにとって神の前にいる人間とは何ものか、死ぬ者とされた人間、責任を他者へ転嫁する者としての人間の姿など、半年くらいここだけで説教ができるほど豊かなメッセージを含んでいる章であります。エヴァとアダムは、取って食べてはならないと命じられた木から取って食べて、神さまの戒めを破り、神さまと一緒に住んでいたエデンの園から追い出される羽目になります。かれらは、蛇のささやきの声を聞いてしまったのです。
二人はエデンの園を追い出され、新しい地で生活を始めなければなりませんでした。今までは、命じられたところだけ管理しながら、エデンの園にあるあらゆる実っているものから取って食べれば良かったのに、もうこれからは自分の手で土を耕し、そこから実ったものをもって生を営んでいかなければなりません。エヴァとアダムがエデンの園から追い出されて、新しい生活を始めた方角は、エデンの東の方でありました。
このエデンの東というところは、本当に罪が罪を生み、人が人を殺し、あらゆる事件や略奪が絶えない、本当に罪人が住むところですね。人類の初カップルであったエヴァとアダムから生まれたカインとアベルの二人の兄弟の間でも、兄が弟を殺すという殺人事件が起りました。弟に対する兄の嫉妬が原因でした。つまり、二人が働いて得た初物の中から神さまに献げ物をしますが、なぜか神さまは弟のアベルの献げ物には目を留められたのに、兄のカインの献げ物には目を留められませんでした。それに嫉妬したカインは、結局弟アベルを殺して遺体まで隠してしまいます。
このカインの前に神さまが立たれます。そして問われるのです。「あなたの弟はどこにいるのか?」と。このことは、神さまは、エヴァとアタムをエデンの園から追い出す際に、二人だけを追い出したのではない。ご自分は天国のようなエデンの園に居残り、のんびり暮らしておられたわけではないということ。ご自分も罪人たちが暮らすエデンの東の、追い出されたエヴァとアダムと一緒に、その家族とともにそこにおられた。そして、今や弟を殺し、自分が何をしたのかもわからない、だから責任を回避してばかりいるカインと顔と顔を合わせて、向かい合っておられる。神さまは、罪人たちの生々しい命の奪い合いの現場にて、かかわっておられたのです。
この神さまの姿を、マタイ共同体が描くイエスさまの姿から読み取ることができるのです。弟子たちを狼の群れの中へ派遣されながら、ご自分も一緒に出かけておられるのです。そして、《蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい》と、弟子たちのことを心配しておられる。具体的にはどういうあり方を言っておられるのでしょうか。
創世記3章に描かれる蛇は、それこそ賢いものでした。人間に戒められている神さまの言葉は、間違っていると二人にささやいたのです。つまり、取って食べてはならない木の実を食べると神さまは必ず死ぬと言われました。しかし蛇は、いいえ、取って食べても決して死なないと言ってエヴァを誘ったのです。確かに、彼らは二人とも禁じられた木の実をとって食べても死にませんでした。しかし、禁じられた実を食べて初めてかれらは、自分たちが裸であるということを悟ります。つまり、狡猾なほど賢い蛇のささやきは、人と人の間に隔てをもたらし、神と人間の間に不信感をもたらしました。その場ですぐ死ななかったものの、人間はやがては造られた土に帰る身となってしまいました。人間に死がもたらされたのです。
「蛇のように賢くなりなさい」ということは、このように、神さまの戒めを破ってまでも、自分のそれらしく思える考え方や論理や主義、欲望を貫くということでしょうか。何で合っても、それが利益につながることであれば、水なのか火なのかの区別もなく進める!ということなのでしょうか。
確かに、旧約聖書のヤコブは狡猾なほど賢い人として知られています。自分の財産を作るために、叔父の家で働きながら、だれも気づかない方法で自分の羊を増やしていきます。羊に模様が入ったものが生まれるなら、それはあなたのものだと叔父に言われたヤコブは、徹底的に模様の入った羊が生まれるための工夫をします。つまり、交尾する羊の前に木の枝を置くのです。すると、生まれる羊に模様がつくようになるというやり方ですね。これは、羊の遺伝子を変える作業であって、それほど彼は賢い人でした。こういう賢さを学ぶということでしょうか。
《鳩のように素直になる》ということについても、皆さまもよくご存知と思いますが、聖書での鳩のイメージはいろいろありますが、その中でも強いイメージの一つは、「清潔」のシンボルであります。ノアの箱舟の際にも鳩は用いられました。洪水によって満ちていた地面の水が引いたことを知らせる役割をしています。つまりここでは、最初に行かせたカラスは戻って来ませんでしたが、鳩は、ちゃんと、オリーブの葉を持ってきてノアに地面の水が引いたことを知らせます。カラスが戻らなかった理由は、地面に広がる人の死体を食べるために戻ってこなかったという見解が示されていますが、鳩には、そのような疑いもなく、清潔さを守っています。
他にも、恋人同士の歌として知られる雅歌においても、恋人のことを鳩に喩えたりしています。中の一節だけ読みますと《1:15 恋人よ、あなたは美しい。あなたは美しく、その目は鳩のよう》といって、ここでも清潔、または純粋なイメージとして用いられています。
「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」。
イエスさまは、この言葉を言い渡しながら、弟子たちの迫害を預言し、もし訴えられてローマ総督の前に引き渡されて、鞭打たれるようなことがあっても、その場で弁明する言葉を準備して行かないようにと言っておられます。問われる場を逃れるためには賢く弁明を述べなければ罪がなお重くなるかもしれないのに、そのためには、弁明の言葉を準備しなければならないと思うのに、です。いったい、「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」ということは、どういうことを言っておられるのでしょうか。
土曜日の朝NHKを見ていましたら、「もしドラ」の作家であります岩崎夏海さんが子どもたちと課外授業で、本を面白く読むためにはどう読んだらいいのかという話をしていました。
今話題になっている本ですから皆さんもご存知と思いますが、「もしドラ」は、「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」の通称であります。
岩崎さんは子どもたちが読書に興味を持って欲しいという気持ちをもって子供たちと接します。その授業の中である本が読まれますが、それが村上春樹さんの本なのですね。それこそ、「もし小学生が村上春樹を読んだら」というおもしろい企画でした。阪神大震災の直後が背景になっていますが、本の中身には、現実にないような話が書かれ、しかし現実にある話しも書かれています。子どもたちは、とても混乱する中で、難しい単語とぶつかりながら本を読むわけです。その子どもたちの姿を見て、最後に岩崎さんはこう言うのです。「本を読む際には自分を捨てるように!」。自分の考え方で解釈を入れて読んだりしていると、その本が伝えようとしている本当のことがわからなくなるから、書いた作者に自分を任せて、委ねて読みなさいということです。
そうか…文学の世界も神学の世界と同じだな~と思いながら最後まで見ていました。
「自分を捨てる!」
まさに、「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」ということは、こういうこと!「自分を捨てなさい」ということ!み言葉に自分のすべてを委ねてしまいなさい、ということ!たとえ、イエスさまの仲間ということで迫害を受ける、仲間はずれをされることがあるとしても、そのために何を言いようか、どのように対策しようかと前もって準備したりしない。つまり、宣教をしながら、この世的なものをもって対応しようとするな、ということであります。
私たちは、特に何かを始めようとするときは、先々のことをいろいろ考えすぎて、なかなかはじめられない場合があります。教会の宣教もそうです。まさに教会の宣教は、先の見えないことであります。だからと言って、自分たちが知っているこの世の知識や合理的な考えやこの世的な奇術などに頼ったりしない。委ねて、祈りながら、み言葉を黙想しながら、一つのことがどう展開していくのか待ってみる。結論を自分で出して、その結論にあった動き方をしない、ということであります。これが信仰者の歩みであります。委ねる!まだ先がわからない幼子たちも、若者も、神さまにこれからの将来を委ねるのです。段々と先が短くなってきた私たちも、残された歩みを委ねるのです、蛇のように賢く、鳩のように素直に委ねるその場に、先に出かけて宣教しておられる主が共におられるということを信じて。神さまがカインと関わっておられるように、この私と関わっておられることを信じて、委ねて行きたいです。