説教


全聖徒主日
2011年11月6日
 
しかし、勇気を出しなさい
 

死んでも生きる、または復活するということを抜きにしてキリスト教はあり得ない。今年の韓国への旅は、いっそう深くキリストの十字架と復活の出来事を大切にしなければならないと思わされた旅でした。

それは、韓国に儒教の教えを広げたイ ファンという人の書院を訪ねたときのことであります。彼は、ルターが生きた同時代の、1500年代を生きた人で、韓国の歴史教科書にも載っている人であります。私は韓国の儒教文化で育てられながらも、儒教について学ぶ機会はありませんでしたが、生活の中で男女の区別がはっきりしていることや目上の人を敬うことなど、知らずに生活の中で深く味わいながら育ちました。

今回、そう言う意味では初めてその教えに触れたような気がします。それは、儒教そのものの教えではないと思いますが、イファン先生が説いている物事への考え方は、とても意味深いものがありました。一つ申し上げますと、家の庭に咲いている蓮について、彼はこのように書いていました。「蓮は、泥の中に咲いていても自分自身を汚さず、その茎の中は透き通っているけれど強く、他のものに頼らず自立している」と。私は、この言葉を読んではっとさせられました。彼は、ただの儒教学者ではなく、哲学者でもあったということであります。彼は、人としての生き方を悟り、蓮の茎の中が透き通っているようにこの世に欲を張らずに生きる、しかし、人の真似をしなくても、その人として自分だけの道を生きる強さを教えていたのです。

はっとさせられたこの教えは、それでは、キリスト教の聖書の教えと何が違うのか。聖書が私たちに教えようとしていることも、これと違わないし、私も、説教の中で同じ事を語りました。そうしたら、キリスト教は儒教と同じなのか!いいえ、まったく違います。イエス・キリストの十字架と復活の出来事。儒教には、これがない。仏教にも、そのほかの宗教にも十字架と復活はありません。イエス・キリストの十字架と復活の出来事、キリスト教はこれ一つに尽きるのです。

多くの人が、この世でどう生きるかの答えを得るために宗教を持とうとします。悟りを説いて境地に達することまではしなくても、一日一日いい言葉に出会って、幸運が巡りくることを祈るために、宗教に入っていきます。そして、儒教も仏教もそのほかの宗教もみんな同じく、それらしきことを説きます。ともすると、キリスト教も同じく、この世での繁栄を約束する宗教へと転落していく、すでにそうなっているところもあるでしょう。そして、私たち自身が、そういうことは求めていないと確信を持って言えるのか。自分自身に問いかけなければなりません。

今年の韓国への旅は、そういう信仰の面においても本当に大切なことを学ぶ機会でした。私たちは、どこで自分の信仰を見直されるか分からない、だからこれからもいろいろの機会を大切に生かして、出かけていきたい、ただ出かけるのではなく、信仰を養うために、学ぶために、そして生きるためにいろいろのチャレンジをしてみたいと思いました。

さて、それでは、私たちはイエス・キリストの十字架と復活の出来事を、どのようにして、まるで儒教が韓国人の生活の中に根深く浸透しているように深く、自分たちの日常生活の中に浸透させ、日々の歩みの中で生かして生きることができるのだろう?

今、日本は紅葉の季節で、どこを見回しても美しく彩っている美しい時であります。韓国の安東や慶州でも、古い遺跡の多いところでしたので、遺跡が紅葉と美しい調和をなして、驚くほどの真っ赤に染まったもみじや彩った自然の美しさにほれるほど、何度も感嘆の言葉を出すくらいでした。ある作家は、美しい紅葉のことをこういう言葉をもって表現しています。
「紅葉は、もう過ぎてしまった青春を悲しむ人を慰め、なお、年老いて死に直面している人の、死への恐れをも忘れさせてくれるものだ」と。
この言葉は、四季の中でも晩秋を称えている一句であります。

人に生きる力さえ与える秋の最後の晩餐のような紅葉の時期。この彩りはどのような過程を経てなるものなのでしょうか。
ある詩人は、秋の終わりに山々が赤く染まるのは、緑が疲れてしまったからだと言います。またある人は、葉っぱの葉緑素(ようりょくそ)の中から緑の命が去ってしまって、残った色があのように彩るのだと、科学的な説明をします。つまり、一時の青々しかった緑が死ぬことによって起きる現象だと言うのです。だから、残りの色も落ちるその直前に、まるで花火が飛ぶような最高に絶頂な美しい姿を見せながら、秋の晩餐を披露しているということでありましょうか。

けれど、この秋の最後の晩餐とも言える彩った山々を巡りながら、これが最期であるという悲しみはありません。やがて、一つ二つ葉っぱが落ちて、彩っていた美しい姿は後もなく消えていくのに、しかし、むしろ喜びが溢れるのです。なぜなのでしょう?人間ではなく、ただの自然だから?いいえ、福島で農業をやっていた人たちは、放射能にやられて再び同じ姿に戻れない畑や自然のことを嘆いています。どんなものでも、一緒にあったものが最後だと知らされたら悲しくなるのです。けれど、紅葉を見ていつまでも喜びが溢れるのは、また来年、その木から青い葉っぱが出てきて青々しく生き、そして、その青い姿に疲れて、青い命が去っていった後に美しく彩ることを知っているから、そうなることだと信じているから、むしろ嬉しいのです。

もし、あの真っ赤な姿が今年限りということだったら、その美しさの前で慰められたり、死さえ怖くないほどの慰めをいただいたりはしないでしょう。葉っぱが落ちて、裸になった木は死んだのではなく、それが生きる過程なんだと知っているから、安心して美しさに心を驚かされたり、慰められたりして喜ぶのです。来年も、再び戻ってくるという約束があるから。そしてこの約束は、地上で唯一、この目で確認できる、復活の約束の祭りであるとも思うのです。

キリストの復活を信じるということは、こういうことだと思うのです。
しかし、いつの時代にも人たちは、何か、科学的に証明して、納得したら信じる、死んだ人が甦るなんて信じられるかと、物理的に証明することができなければ信じないという、合理的な扱い方の中でイエス・キリストの復活の出来事は位置づけられてきました。今も、そして、ここにいる私たちも、もし、日常生活の中にイエス・キリストの十字架と復活の出来事が習慣化され、根深く生活かされていないのならば、科学的な説明を求めているということでしょう。

主の弟子たちも、主が死んで復活することを何度も話しているのに、信じませんでした。信じられなかったのです。見たこともないし、科学的に説明できることでもないし、納得がいかないから信じることができなかった。しかし、イエスさまは、信じる時がくると、その時には信じられるのだと、イエスさまの方から弟子たちを信じてくださいました。

今日は、全聖徒主日であります。すでにこの世での生を終えて御許に帰られた、愛する方々と一緒に礼拝を守る日であります。
私たちは、ともすると、死んだ人は死んでいて、生きている人は生きていると、単純にそう考えるかもしれません。だから、死んだ人と生きている人がどうやって一緒に礼拝できるのか?とさえ思うかもしれません。しかし、イエス・キリストの復活の命に生きると言うことにおいては、死んだ人が生きていることになり、生きている人が死んでいると言われる場合があります。

さて、皆さんは生きているでしょうか。もしかしたら、この世での生に執着しているあまり、いつまでも古い命に生きていたりはしないでしょうか。これを、聖書では死んでいる、新しい命に死んでいる状態と言います。または、悲しみに溺れて、希望に陥って、生きる意味を見出せず虚しさに襲われる中で生きているときに、まるで死んだように生きていると言います。

イエスさまは、本日の福音書のヨハネ16章で、ご自分が死んで別れたらきっと絶望に陥って行くだろう弟子たちのことをすでに配慮して、こう語ります。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(33節b)と。
この世での生がすべてであると信じる弟子たちは、イエスさまがエルサレムに上ってこの世の権力を握ってくださると信じて従っていました。その彼らが、イエスさまを死によって失うことは、死に陥るほどの絶望的なことになります。ですから、イエスさまは、別れる前に彼らに語っておられるのです。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(33節b)。

「あなたがたには世で苦難がある」。そうでした。弟子たちは、クリスチャンであると言うことだけで迫害を受けました。この言葉を伝えているヨハネ共同体は、ローマ帝国によって大きな迫害を受けた共同体であります。クリスチャンであると言うだけで迫害を受けるということは、今の私たちには分からないことでしょう。しかし、私たちにも苦難があります。それぞれ、大きな苦難を経験しています。しかし、「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。ヨハネの共同体はこの言葉を信じて苦難を乗り越えていたのでしょう。

イエス・キリストの十字架と復活の出来事に預けられるということは、こういうことだと思うのです。つまり、この方の死に与り、この方の勝利の中に預けられて、この方が生きるから私たちも生きるということ。私が戦って勝つのでも、私が信じて信じるのでもない。そんなに論理的なことではなく、私の中に起きてくるすべての事を、この方の十字架と復活の出来事を通して見る目を持っているかどうか。もしかしたら、私が考え、私が行い、私が理解し、私が納得いかないことを退けながら、自分はキリスト者だと言うならば、それは違うと思うのです。これは、十字架と復活のない、他の宗教の教えに従うこととあまり変わらないことでありましょう。

私たちは、何ことにおいてもこのイエス・キリストの十字架と復活の出来事の中で物事を考えていくのです。人生のもっとも盛んな時に病によってその生を閉じなければならなかった友人のことも、キリストを信じると告白しないまま、予期せぬときにこの世での生を終えた、愛する家族のことをも、イエス・キリストの十字架と復活を通してのみ考える自由が、私たちには与えられているのです。もはや救われた者として今主と共におられる、そして、私たちと新しいいのちの延長線上の中に共におられること。なぜなら、イエス・キリストの十字架は全人類のために立てられたものだから。

待たなくても再び山々は彩られ、この一年の最後の絶頂の姿をして時を飾ってくれています。そしてその姿は、来年も再び芽を出し、緑を生やし、また美しい姿で出会う人々に喜びを分かち合うことを約束してくれている、豊かなメッセージでありましょう。決してこれが最後ではないという。
先に御許へ帰られた者の姿を見ることはできないけれど、しかし、今ともにいる。そして、再び合える、必ず合える。だから、勇気を出しなさい。そして、イエスさまがこの世に勝っておられるのですから、私たちもこの世の物事に執着してくよくよと生きるのではなく、生き生きと、新しい命を生きる者になりたい。この世に神の国を広げるのは、そう言う人を通してであります。






聖書


 ヨハネによる福音書16章25~33節
25 「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。 26 その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。 27 父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。 28 わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」 29 弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。 30 あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」 31 イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。 32 だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。 33 これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」