説教


聖霊降臨後第25主日 成長・収穫感謝礼拝
2011年11月13日
 
眠りから起きなさい
 

小さい頃、近所の家で結婚式があることを聞くと、なぜが嬉しくなり、時々しながらその日を待っていたことを思い出します。別に自分とは関係のないことなのに、人の結婚式を楽しみに待っていました。もちろん、ご馳走を食べられるということもあったし、お花がいっぱい飾られることで家が華やかになることも楽しみでした。

昔は、家で結婚式を行っていたので、人の家のことだけどみんな頼まれなくても手伝うつもりで準備をしていました。子どもたちもお花も作る作業を手伝ったりして、とても楽しい準備期間を過ごしていたことを思い出します。しかし何よりも、一番の楽しみは、花嫁の姿を見ることでした。女の子にとって花嫁の姿には夢があります。お姫様のように着飾って、まるで童話の中の世界の人のように映る花嫁姿に自分の夢を見ていたのでしょう。今は、昔のような結婚式を見ることはできなくなりましたが、でも、今でも花嫁の姿は人に夢を与えてくれるものではないかと思います。

パレスチナ地方で行われる結婚式もそのとおりで、一つの村だったら村全体を挙げて行うような、お祝い事でありました。みんなが大喜びで心から花婿を向かえ、または花嫁を送り出すことが習慣化されて、自分のことのようにやっていたのです。そしてこの結婚式は何日もかけて行われていました。そのためには、食べ物や飲み物も、そして夜の闇を照らす明かりを灯す油の準備もたくさん必要でした。

本日、イエスさまはこの当時の結婚式の状況をたとえ話に挙げて、天の国はこのようであると、話しておられます。つまり、花婿を迎えるために出て行った乙女が十人いたと。その中の五人は賢く、五人は愚かだった。賢い乙女たちは、花婿の訪れが遅くなるときのことを考えて余分な分まで油を準備していたが、愚かな乙女たちはそういう準備をしていなかったと。
本日の福音書の日課には愚かな乙女たちと、愚かと言う言葉を使っていますが、あまり、人のことを「愚か」という言葉で言うのはいいことではありません。ともすると、相手の弱さを引き出して「愚かだ」と言ってしまう場合が多いからです。そういう意味では、ここで「愚か」と言われる言葉の意味が、私たちに普段軽く使っていることではなく、本当に大事なことを指摘するつもりで言っているというふうに理解したらいいと思います。

さて、花婿が訪れるのが遅れていて、そこにいた人たちはみんな眠ってしまいました。賢い乙女たちも愚かな乙女たちもみんな眠ってしまいました。人の肉体は、ある限界を超えてしまうと耐えられない弱いものであり、疲れていれば眠たくなるのは自然なことです。ですから、花婿の訪れが遅くなって眠ってしまった彼女たちを問うことはできないのです。そして、本日の福音書の日課がそれを言いようとしていないことも覚えておきたいです。

ところが、眠っていたそのとき、花婿が到着したという知らせが届きます。眠っていた乙女たちはあわてて起き上がりました。しかし、明かりが、眠る前の半分しか照らされません。余分な分まで準備しなかった乙女たちのともし火の油が尽きてしまったのです。彼女たちは、そこで「愚かな者」と言われました。つまり、花婿の来られる道を照らす灯かりを灯さなくなったこと。暗闇の道を灯す働きに使わされたはずのものが、油を持っていなかったためにその働きを全うすることができなかったこと。聖書は、その彼女たちのことを愚かな者と伝えています。つまり、聖書の言う愚かさはここにあるということ。それを今日は具体的に聞いてみたいと思います。

しかし、ここで一つ疑問が残ります。花婿はこの十人の乙女たちの花婿ではなく、花嫁は別のところにいる。すると、十人の乙女たちは借り出されて、友達なのかもしれない人の結婚式のお手伝いをしてもらっている人たちと考えられます。すると、花婿が来る道を照らす灯かりの油の準備は、結婚を主催する側がすることであって、どうして彼女たちが準備しなければならないのだろう?という疑問です。

しかし、彼女たちが愚かであると言われるポイントが、他でもなくここにあるということ。本日私たちが聞くべきメッセージもこの問いかけの中にあるということであります。

つまり、人の結婚式であるけれど、彼女たち自らが油の準備をしていた。さらに、賢い乙女たちは、もしかしたら遅れるかもしれないという予測までして油の準備をしていた。自分たちに任せられていた働きを、抜け目泣く、最期までまっとうしようとする誠実な姿勢で準備していたのです。つまり、このことは、人の結婚式ではあっても、花婿を迎えている人の喜びに与っているということであります。頼まれたから、今までその人が自分にどれだけやってくれたのかと言う計算のもとで手伝うのではなく、積極的に、そして具体的に、花婿を迎える花嫁の喜びをまるで自分の喜びであるかのように準備をしていたということであります。愚かな乙女たちに問うっていることはこのことなのです。花婿が来られるその日まで、どれだけ具体的に、誠実に、事前準備をしておいたのか。逆に申しますと、人の結婚式だということで、とおりいっぺんで、他人事にすぎないことだと、それほどのものでしかないような姿勢で準備をしてきたのではないかということ。

つまり、イエスさまはここで、他者の喜びと祈りがどういう性質のものであり、自分自身にも深く関わることを意識して生きているのですか?ということを私たちに問うっておられるのです。もし、本当に人が置かれている喜びの場、そしてその人の祈りが自分とも深い関係の中にあると思うならば、それこそ誠実に、謙虚に、積極的に、喜ぶ人の喜びに自分も与って分かち合いながら、花婿が来られる道の明かりが、一晩を灯しても消えないように、準備する、そういう姿勢で生きていますか。人と関わっていますか。そいうことがここでは問われているのです。

ここで用いられている油とは、本当は別のことをさして比喩的に使われているものです。
ルターは、ここで言われる油とはその人の信仰を表しているとも言えるし、霊的な敬虔さを現しているとも言えると述べます。
またある人は、ここで言われる油とは、愛のことだと言われたりもします。それこそ、本日の福音書日課のすぐ前のマタイ24章の12節には、終末の時の徴として「多くの人の愛が冷える」ことと述べられているのですから、ここで言われている油とは、愛のことを比喩的に指していると考えた方が近いでしょう。

本日、賢い乙女たちは、この愛に生きる人たちでありました。彼女たちは、人の喜びを共にし、人の祈りを自分の祈りのように大切にする人たちであった。愛ゆえに、人に訪れている結婚と言う喜ばしいことが、その人にとって本当に幸せなことであるように心から祈られる人たちであったということ。人は、相手に対して主の慈しみと憐れみによってもたらされる愛がなければ、誠実に、そして積極的に、他者の喜びのために働くことは出来ないものです。それこそ、適当にかかわり、表面的な付き合いはできるとしても、その関係は長続きしませんし、実を結ぶような関係にもならないことでしょう。

先日、ルーテルとなりびとのボランティアの一環としての思い出洗いプロジェクトを引き受け、私たちの教会でもアルバムを取り寄せて洗う作業をしました。大切な家族をなくした人にとって残っている写真は、かけがえのないものであります。それは、大切な家族を、思いもがけないことで失ってしまった立場になったことのない人にはわからないことなのかもしれません。しかし、その人の心の中の悲しみを、経験したことのない人は想像してみることしかできませんが、想像してみることさえ怠る人もいます。けれど、想像してみることで、その人のために祈りもできますし、寄り添うことはできると思うのです。そして、そういうことを通して、相手が必要としていることが分かってきますし、取り掛かることもできるのです。こう言うことが、人の喜びや悲しみを共にし、その人の祈りを引き受けていくことではないかと思うのです。そして、教会がそういうことを引き受けていくことが、神の国をこの世に広げる、宣教の働きを担うことではないかと思うのです。

または、人の子どもであっても、その子の成長を共に祝い、喜び、その子の成長のために祈っていくこと。

イエスさまに賢いと言われたのは、こういうことだと思うのです。そして、反対に愚かであると言われたのは、こういう積極さや具体化にかけていることを言われていることだと思うのです。

賢い人たちは、暗闇の中に訪れる花婿の道を照らすことができました。彼女たちの中に育てられている愛は、人が歩む暗い道を照らす光となり、喜びの中にいる人が本当の幸せを迎えられるようにすることができました。彼女たちは、肉体は疲れて眠っていても、彼女たちの魂は、眠っていなかった。闇を照らすともし火が消えないようにと、つねに、誠実に、そして積極的に、心の目を覚まして準備をしていたということ。

神の国がこの世に臨む働き、神の国が私たちの間に臨むように働くことはということは、一時的に頑張ってやることではなく、耐えなく、持続的に、そして誠実に、我ことのように行なうそういう働きの中にあると信じます。この賢い乙女たちの姿から自分自身を見出すことができますように、お祈りしております。






聖書


 マタイによる福音書25章1~13節
1 「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。 2 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。 3 愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。 4 賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。 5 ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。 6 真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。 7 そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。 8 愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』 9 賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』 10 愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。 11 その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。 12 しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。 13 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」