説教


聖霊降臨後最終主日
2011年11月20日
 
新しい歌を歌おう
 

今日からアドベントが始まりました。
救い主がお生まれになる、しかも私たち、私のところでお生まれになってくださることを待ち望む季節を迎えています。
昔からこの季節は、慎み深く、悔い改める季節として過ごしてきました。それは、お生まれになる救い主は、自分を慎み、悔い改めて低く、謙虚な人の所にこそお生まれになってくださるからです。聖なる方が家畜小屋で生まれるということはそういうことであります。

ですから、たった四週間しかないこの季節を、クリスマスの準備のためにばたばたして過ごしてしまったり、または、この世的なクリスマスを祝うために惑わされて、大切なときを無駄に過ごしてしまったりすることのないように過ごしたいのです。皆さんの中で、ある方にとって今年のクリスマスは特別な意味をもっていると思います。私自身も、今年は、特別な意味をおいています。特に今年は、日本全体が多くの痛みを負って迎えるクリスマスですから、クリスマスの喜びが痛みを負って迎える方たちにはどういう意味になるのだろう、そのために私たちは、教会はどういう風に迎え、祝うべきなのだろうと、このことまで含めて準備をして行きたいです。

さて、毎年待降節第1主日には、イエスさまがエルサレム城へ入場される箇所が選ばれます。その理由は、救い主としてお生まれになる方はこういう方である、とうことを知らせるためであります。つまり、救い主としてこられる幼子イエスは、エルサレムで、十字架を背負って苦しみを受けて死なれる方であるということを示すためにこの箇所が選ばれています。

そして今日、イエスさまがエルサレム城へ入られる知らせを聞いて、大勢の人がイエスさまを迎えるために集まりました。今日は、この人たちの姿を通して皆さんとみ言葉を分かち合いたいと思います。
人たちはイエスさまを迎えながら、イエスさまが歩まれる道に自分の服を脱いで敷いたり、木の枝を切ってきて敷いたりして、イエスさまに対する思いを現しています。自分の服を敷いたり木の枝を敷いたりする行為は、私はあなたの歩まれる道を準備しますから、その上を歩かれるあなたの祝福が、敷いた服を通して、木の枝を通して私に伝わるようにしてくださいと言う願いが込められています。そして同時に、それを通して私はあなたの歩まれる道に従って歩みます、と言う意志の現しでもあります。このことはとても大事なことです。

そして、服を敷いたり枝を切って来たりして敷いた人々は、さらに「ホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように。われらの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と歌っています。この歌は、詩篇118編26節の言葉であります。詩篇そのものをお読みしますと「祝福あれ、主のみ名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する」と書かれています。

この詩篇118篇は、ルターが好きだった詩篇でもあります。もちろん、本日の福音書の日課に引用されている26節だけではなく、ルターが好きだったのは118篇全体でありますが、ルターはこの詩篇についてこのように書きます。皇帝も、王様たちも、賢者も、聖者もわたしを助けることはできなかった。しかし、この詩篇が私を助けてくれた。私を苦しみから救い出してくれたと言うのです。それくらい、ルターにとってこの詩篇118篇の言葉は、神さまの力が与えられた力強い言葉であった、と言うことであります。

その詩篇の中の26節、「祝福あれ、主のみ名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する」と歌う一節は、イスラエルの祭りの行進のときに用いられた歌でありました。祭りのとき、祭司たちが聖所へ向かって行進する道には、棕櫚(しゅろ)の木の枝や楊(よう)柳(やなぎ)の木の枝が敷かれました。祭りに集まってくる人たちがその枝を準備してくるのです。つまりそれは、その枝の上を歩かれる方の祝福が、敷かれた木の枝を通して、そこに集まっている会衆に行き渡るようにという願いが込められていたのです。そして、枝を通して祝福をいただいた会衆は力をいただいて、なおいっそう祭りを盛り上げる新しい歌を歌って祭司たちの後についで行進をするのです。

その詩篇が、今日イエスさまがエルサレムへ入場される際に歌われているのです。人たちが木の枝や自分たちの上着をイエスさまの通られる道に敷いて、歓迎しながら歌っているのです。つまり、来られるこの方の祝福が自分たちに行き渡ることを願い求めながら人々は歌っている。「ホサナ、主の名によって来られる方に祝福があるように…」

もちろん、この人たちは、この後のマルコ15章13節では、ローマの総督であるピラトがイエスのことをどうしようか?と聞かれたときに、「十字架につけろ」と、叫びを変えていく人たちであります。エルサレムに入ったら偉い人になって、自分たちを苦しみから救い出してくれると信じて、だから「ホサナ」と祝福の歌を歌っていた。しかし、その期待が外れ、イスラレルの祭司長たちやローマの総督から尋問を受け、ますますイエスさまが不利な場面に立たされていくのを見ると、人々は祭司長たちの見方をしていきます。「ホサナ」と歌っていた同じ口から「十字架につけろ」と叫ぶように変わっていくのです。

これは、人の弱さであります。そして、この弱さはこの人たちだけではなく、私たちも、自分の思い通りにならなかったら相手に責任を問うって立つ、同じ弱さをもっている人間であります。だから、今日、この人たちの姿を通してみ言葉を分かち合うのは大事なことであります。弱さは同じように抱えているけれど、反面、この群集は、エルサレム城へ入られるイエスさまを通して何とか祝福をいただこうと、歓迎して、自分の服を脱いで通られる道に敷いたり、木の枝を切ってきて敷いたりしているのです。私たちは、弱さを抱えているからこそ、それを知るからこそなおいっそうイエスの歩まれる道に自分を委ねる。この群集は、今、この時点で、自分で精一杯できることを、やっているのです。思いの中で止めて考えるだけで終わるのではなく、実践して、相手への敬意を外へ現している。

つまりこのことは、イエスさまの道に積極的に入っていく姿と言えましょう。誰かに頼まれたからやっているとかでもなく、義務つけられているからやっていると言うのでもない。自ら進んでイエスさまの通られる道を準備していると言うこと。
二週ほど前の主日に、私たちは十人の乙女たちの姿を通してメッセージを聞きました。その中の五人は賢い乙女と言われていました。賢いといわれていた乙女たちは余分な分までの油の準備をしていました。つまり彼女たちは、相手が迎えようとしている喜びに積極的に振舞った。灯かりをもって立っていてくださいと言われたら言われたことだけをやったのではなく、言われた以上に、彼女たちは、人の家で祝われている祝宴の喜びを自分の喜びでもあるように受け止め、言われなかった分まで準備していたのです。その結果として、彼女たちはその祝宴を実際自分たちのものとしていくのでありました。

そして、こういう積極的な彼女たちの実りでもいえることがその次に記されていました。飢えている人のお腹を満たせ、のどが渇いている人を飲ませ、牢にいる人を訪ね、裸の人に着る物を着せるという、隣人の切実な必要を満たしていくという、そういう結果を生み出したという意味合いの中で、またによる福音書25章全体は書かれているのです。

私たちは、この賢い乙女たちの姿を、今日、イエスさまを歓迎して迎える人々の姿から見るのです。イエス・キリストの道を整えることを通して、イエス・キリストの受難の中に積極的に参与していく。後に、彼らがイエスを裏切っていくのだからこの姿まで否定してはなりません。むしろ、イエスを裏切ることさえもできない、あまりにも消極的で、イエスさまのお通りをどこかで、距離を置いて眺めている自分の姿に気づかなければならないのです。一生懸命に、着ている福を脱いで敷いたり、木の枝を切ってきて敷いたりして、イエスさまの来られる道を整え、何とか自分たちを神さまに委ねようとしている姿、夢中に奉仕している人の姿をただ眺めているとするならば、それは本当に消極的な迎え方でありましょう。そう言う立ち方をしていたら、いつまでもクリスマスの喜びは他者の喜びとしてしか感じられません。

人々が自分の服を道に敷く、この姿は「あなたに従います」という献身のしるしでもあると申しました。イエスさまの時代のイスラエルの人にとって服は、とても大事な財産でありました。ですから、イエスさまが十字架の上で死なれた際に、兵士たちが、イエスさまが着ていた服をくじ引いて分け合うのは、その理由もありました。それだけ大事な服を、人が通られる道に敷くという行為。これは、ただ口で「ホサナ」と歌っていれば祝福が与えられると信じるような、そういう口だけの信仰ではありません。自分にとって大事なものをささげてこそ、委ねてこそ、ついて行きます、そして祝福を与えてくださいという願いも切実なものになってくるのでしょう。

さて、これから、アドベントの期間の間、私たちは、この方、救い主が来られる道を準備していきます。私たち一人ひとりにとって、積極的に来るべき方の道を準備するということはどういうことでしょうか。私は、この方の来られる道に何を敷き、どんな歌を歌うことができるでしょうか。そして、私の歌う歌に、私が道を準備してるその行いによって、私の隣人は何か満たされるでしょうか。何も満たされないでしょうか。津波や放射能で苦しんでいる方々は、クリスマスのメッセージをどのようにして伝えてもらうことでしょうか。

「アドベント」とは、言葉とおり、冒険をすることであります。私の心の戸が開かれれば、そこにイエスが、救い主が来られ、新しい交わりが始まるのです。今までやったことのない冒険がなされるのです。そのときには、新しい歌も歌われ、神さまに自分を委ねささげずにはいられない、そんな自分へと変えられていくことでしょう。そしてそこで生まれた歌が、皆さんの人生のテーマ曲となりますように、お祈りいたします。






聖書


 マタイによる福音書25章31~46節
31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。 32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、 33 羊を右に、山羊を左に置く。 34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。 35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』 37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。 38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。 39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』 40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』 41 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。 42 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、 43 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』 44 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』 45 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』 46 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」