説教


待降節第1主日
2011年11月27日
 
今年の足跡
 

どんなに信仰が深いように見られても、行いが伴わないのならその信仰は死んだ信仰と言われます。
このことは、教会のことに限らず、口でばかり万里の長城を築いていても、それを行いに出して実行していかない人の言うことは、信用されません。聖書のみ言葉を聞き、そしてそれを信じて従う人には、同じように実践と言う、表面的な現れが出てくるのであります。 ところが、ルーテル教会では、行いが伴う信仰が養われることに、むしろ抵抗さえもってきた歴史があります。それは、ルターが宗教改革のときに、スローガンとして掲げた三つのためにです。聖書のみ、恵みのみ、信仰のみ。この中の「信仰のみ、つまり、人は信仰によってのみ生きると言う言葉のために、行いの必然性が宣教の中で弱くされてきたことは事実です。もちろん、中世の教会の、行いによって救われるという教えに反駁するスローガンですから、そうならないように用心してきたということも理由としてあるでしょう。 本日、マタイは、その福音書の中で、私たちに二つのグループの人たちを紹介してくれます。右にいる人たちと左にいる人たちです。場面は終末を想像させる場面で、王の前に、人たちが分けられています。右の人たちは、祝福された人たちで、左の人たちは祝福されない人たちです。右の人たちは、王が飢えたときに食べさせ、のどが渇いたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた人たちと言われます。反対に、左にいる人たちはこういうことをしなかった人たちであります。 しかも、ここで大事なことは、「いつ私がそんなことをしましたか!」、「いつ私がそんなことをしませんでしたか」。つまり、自分の人生を生きるという歩みの中で、他者に対して、他者が必要としていることを満たしながら歩んできたのか、歩んでこなかったのか。右と左に分けられた人たちはそれが問われているのです。
そしてもう一つ大事なことは、教会が、群れ全体として、そうするものだと言われているのではなく、一人ひとりの生き方の中に、他者の必要に気づく生き方をして来ましたか?他者の切実な叫びの声に耳を傾けてきましたか?という、個々人への問いかけがここではなされていると言うことであります。このことは、先週の日課をもう少し具体的に述べていることだとも言えるでしょう。 このことは、実際にマタイ共同体が直面していた課題だったと言われます。共同体の中で、イエスの教えを抽象化して、内面化して、精神的なことにして捉えてしまい、貧しい仲間を顧みることもなく、共同体の本当の意味を失いつつあった危機感の中にあった。ですから、本日の二つのグループに分けられているのは、共同体が本当の意味で生きるために必然的なことであったと考えられます。 そう言う意味では、日本の教会は常にこの箇所を通して問われなければならない、ということを意識していなければならないと思うのです。
日本のキリスト教は、明治以降、欧米を経由して伝えられました。その伝え方は、日本の文化を無視した形でした。キリスト教と一緒に欧米の文化をまるっきり受け入れるような形で伝えられたのです。それは、福音が、日本の、日本人の生活そのものと関わりを持たない形で伝えられたことになります。ですから、はじめから日本のキリスト教は、福音が人の生活と結びついて生きるものにならず、内面化され、精神化されて理解される、そういうキリスト教をキリスト教として受け入れてきたのです。それはまた自動的に日本の教会が、日本社会の習慣を吟味することなく、日常生活はどっぷりと世俗的でありながら、観念的なキリスト教信仰を求めてきたということであるとも言うことができます。 その結果として、そこで何が起きていたかというと、教会が、日本の社会の中で余儀なく差別され、社会の底辺に追いやられている人々に対して、社会と同じく差別する側に立っていた。もちろん、それは意識的にやっていたことではなかったでしょう。無意識の中で、それが何を意味するのかも知らないまま、この世のやり方、世俗的なあり方にのっていたらそう言う結果になったということでしょう。
しかし、福音理解が抽象化され、精神的なものとされ、観念的に捉えられてしまうときに、教会が教会としての歩みを失ってしまうのです。 福音を精神的なものとし、内面化してしまうとき、キリストの愛を実践する共同体であるはずの教会の中において、他者の衣食住や健康、そして縄目からの解放について無関心でありながら、「主よ、いつ私がお世話しなかったのでしょうか」、つまり、「いつ、神さまに仕えて礼拝を守ってこなかったでしょうか」と問いかけている。自己正当化に陥りやすい信仰になりがちであるということであります。そして、パンを分かち合うことをしなくても、主の祈りを祈ることができますし、生活の現実を抽象化して、それが神に仕えることだと公言することさえできてしまうのです。マタイ共同体において、二つのグループに分けられている左側の人たちの姿を平気にかぶって、それを信仰であると言う。悲しい現実が教会の中にあるということであります。 マタイ共同体は、自分たちの経験を生かして、このような教会になってはいけません、という警告をしているのです。小さい者であるはずのキリスト者は、もっとも小さくされた人々の立場に立って物事を言う。そして、もっとも小さくされた人々へ事を行っていく。そして、そういう姿勢こそが、最も小さくされたキリストの共同体の姿勢ではないだろうか、ということでありましょう。 人々を右と左に立たされた王は、右の人たちが行ったことは自分にやってくれたことだと言います。そして、左の人たちが行わなかったのは、自分にやってくれなかったことだと言います。
この王は、イエス・キリストのことを比喩として言われています。つまり、イエス・キリストは、他でもなくもっとも小さくされた人々の中に共におられる、ということであります。それは、ただ貧しくて衣食住が解決できなくて小さくされている人たちのことだけを言っているのではありません。そうではなく、自分が、本当は神の救いから遠い者、神の救いに与る値打ちもない者、そんな自分が救われている。衣食住に困らないほど財産もあるけれど、しかし自分の全存在がイエス・キリストにおいてのみ新たな価値を見出せる小さき者である。数え切れないほどの多くの弱さを抱えている者であるという気づきを持っている人。 今年はマタイの福音書からみ言葉を聞く年でありましたが、来週から暦はかわり、マルコの年が始まります。マタイによる福音書から霊の糧をいただきながら歩んできたこの一年間、どんなことがあり、どういう歩みをしてきたのか振り返って見ましょう。いろいろのことがありました。3・11の大震災と津波、原発による被害、言葉では言い表すことができないほど、今年は多くの人が痛みを負った苦しみの年でありました。そして、個々人においても、思いもかけないときに大切なものを失ってしまった、辛い年でした。ある面、歩んだというより、歩まされた、生きたというより生かされた、ほんとうに、どうやってあの時期を乗り越えここまで来たのか分からないと、あの時を振り返る方もおられることでしょう。 その反面、希望に輝いた一年だった方もおられることと思いますし、やっと、生きるというつながりを見出した方もいらっしゃることでしょう。いつものように、いっそう成長させられた年だったし、そう言う意味では、新しい決断を下し、新しい歩みを始めることのできた大切な年であった方もおられます。しかし、そこに隣人がおられましたか。苦しかった日々に、そして、反対に嬉しかった日々のその中に、あなたの隣に隣人がいたことに気づきましたか?ということ。 いつどんなときももっとも小さくされた人の姿をして共におられた隣人。「いつわたしがそんなことをしましたか」、「いつわたしがそんなことをしませんでしたか」と、人が意識して気づくことを通してではなく、そっと、知られないように、しかし確かにおられたその方を感じていたのか。 この隣人は、地震や津波や原発で大切なものを失って嘆いている人たちの間にもおられ、思いもかけないものを失い嘆いている人とも共に嘆いていた方です。そして、生きる希望を見出すことができたと喜んでいる人の傍らで、共に喜んでおられたその方であります。抽象的にでもなく、精神的にでもなく、観念的にでもなく、新しいいのちをもってそれを分かち合いながら共におられたということ。

本日は、足跡という詩を読みたいと思います。

もっとも小さき者の姿をして私たちの隣人として立ち尽くされるイエスさまは、こういう関わりで私たちと共におられます。決して抽象的にでもなく、決して精神的にでもなく、積極的に私たちの人生のど真ん中におられ、私たちをまるきり捉えておられるのです。私たちの一年は、この隣人の関わりのゆえに、祝福され、右と左と分けられているというより、小さき隣人、イエス・キリストの側に置かれています。私たちも、この喜びを、抽象的にでもなく、精神的にでもなく、観念的にでもなく、生きている生活の現場で、積極的に伝える、生きた信仰を養って行きたい。






聖書


 マルコによる福音書11章1~11節
1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、 2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。 3 もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」 4 二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。 5 すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。 6 二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。 7 二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。 8 多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。 9 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。 10 我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」 11 こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。

 コリントの信徒への手紙一1章3~9節
3 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。 4 わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。 5 あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。 6 こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、 7 その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。 8 主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。 9 神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。

 イザヤ書63章15節~64章7節

15 どうか、天から見下ろし
輝かしく聖なる宮から御覧ください。どこにあるのですか
あなたの熱情と力強い御業は。あなたのたぎる思いと憐れみは
抑えられていて、わたしに示されません。
16 あなたはわたしたちの父です。アブラハムがわたしたちを見知らず
イスラエルがわたしたちを認めなくても
主よ、あなたはわたしたちの父です。「わたしたちの贖い主」これは永遠の昔からあなたの御名です。
17 なにゆえ主よ、あなたはわたしたちを
あなたの道から迷い出させ
わたしたちの心をかたくなにして
あなたを畏れないようにされるのですか。立ち帰ってください、あなたの僕たちのために
あなたの嗣業である部族のために。
18 あなたの聖なる民が
継ぐべき土地を持ったのはわずかの間です。間もなく敵はあなたの聖所を踏みにじりました。
19 あなたの統治を受けられなくなってから
あなたの御名で呼ばれない者となってから
わたしたちは久しい時を過ごしています。どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように。

1 柴が火に燃えれば、湯が煮えたつように
あなたの御名が敵に示されれば
国々は御前に震える。
2 期待もしなかった恐るべき業と共に降られれば あなたの御前に山々は揺れ動く。
3 あなたを待つ者に計らってくださる方は
神よ、あなたのほかにはありません。昔から、ほかに聞いた者も耳にした者も
目に見た者もありません。
4 喜んで正しいことを行い
あなたの道に従って、あなたを心に留める者を
あなたは迎えてくださいます。あなたは憤られました
わたしたちが罪を犯したからです。しかし、あなたの御業によって
わたしたちはとこしえに救われます。
5 わたしたちは皆、汚れた者となり
正しい業もすべて汚れた着物のようになった。わたしたちは皆、枯れ葉のようになり
わたしたちの悪は風のように
わたしたちを運び去った。
6 あなたの御名を呼ぶ者はなくなり
奮い立ってあなたにすがろうとする者もない。あなたはわたしたちから御顔を隠し
わたしたちの悪のゆえに、力を奪われた。
7 しかし、主よ、あなたは我らの父。わたしたちは粘土、あなたは陶工
わたしたちは皆、あなたの御手の業。