信頼感は人に大きな力を与えます。この世に一人だけ信頼できる人がいれば、その人は成功した人生を生きていると言われます。どうでしょうか。皆さんはその一人がいますでしょうか。
母親に認められた子は世界に出て行って大きなことをやりこなす自信をもつと言われます。母親と子どもとの関係は特別な関係であるからです。自分の体の中に身ごもり、十ヶ月間体の中で育て、苦しみを伴って産むのですから、当然関係は特別な関係になります。ですから、子どもにとって母親の役割はその子の将来を決めるほど大切な立場になります。
さて、本日はマリアの主日のために、聖壇の色も私のストールも蝋燭もピンク色です。そして、本日の讃美頌にはマリアの賛歌が選ばれています。長い教会の伝統の中で、アドベント第三主日はマリアの主日として守られてきました。本日はこのマリアの賛歌を通してそれを歌うマリアについて共に考えてみる時を持ちたいです。
マリアの賛歌は、マリアの中にイエスさまが身ごもっておられるときに歌われた歌でありますが、マリアは、結婚もする前に、しかも婚約者の子ではない、他からの子を妊娠することにっなったことに対して、神さまが自分に偉大なことをしてくださったと、誇らしげに歌っている歌であります。
この頃、好きな相手との間に出来た子どもであっても、その命が危うくされる時代に見るこのマリアの姿は、現代の私たちに考えさせる振る舞いであります。
皆さんは、こういうマリアのことをどういう女性として思い受けベルでしょうか。田舎で穏やかな家庭で育てられた優しいマリア?世間の冷たい風を知らないマリア?多くの讃美歌や映画などでのマリアは、優しくておとなしい、夢見る少女のような姿で描かれます。きっと私たちの中にもそういうイメージが強くあるでしょう。それは、長い間、教会の中で語られたマリアは、優しくて穏やかな女性、まだ男性を知らない清潔な女性であると、イメージがつくられ、語られてきたからです。
しかし、少なくとも、本日交読文の中に記されている賛歌を歌っているマリアは、こういうイメージに当てはまるような人のようには、どうしても思えないところがあります。この歌は、とても情熱的で、怖いもの知らずで、われを忘れて感激している歌であるからです。さらにこの歌には、私たちが歌っているクリスマスの賛美歌に見られるような甘い、物寂しい響きはどこにもありません。マリアは、王座から引き降ろされた王と権力を奪われたこの世の支配者について歌っていますし、神の偉大な力を称え、同時に人間の無力さについての強烈な、手加減することのない、厳しさを歌っています。
つまり、この賛歌を歌うことを通して、この世の力を打ち破る方、救い主がこの世にお生まれになることを、マリアは大胆に告げているということであります。違う表現で申しますと、生まれてくる子、今マリアのお腹の中の子は、神が人間の思いや見解を破り、人間の力の届かないところで与える永遠なるもの、永遠の命をもたらす働きをする方であることを歌っているのです。
ここで、私たちはマリアが身ごもることになった状況を考えて見る必要があります。
マリアは、「ダビデの家のヨセフと言う人のいいなずけであるおとめ」(1:27)と言われています。つまり彼女は、まだ結婚していなければ、これから結婚する相手が決まっている身でありました。天使ガブリエルは、その彼女に子どもを身ごもることになると告げます。そして、ガブリエルが告げたとおり、マリアは身ごもり、まだ結婚していない人が、しかもいい名づけがいる乙女が、お腹が大きくなってくるという状況の中に置かれました。
暮らしているところは、ナザレと言う田舎の小さな村であります。田舎というのは、助け合うことではとてもいいところですが、いっぺん悪い状況に置かれると、とても大変なところです。その家の今晩のおかずは何なのかまですべて知られるような暮らしだからです。そんなところで、結婚もしていない女のお腹が大きくなってくるということは、彼女がどんな目で見られ、それまで築かれた村の人たちとの信頼関係にひびが入ることも想像できます。父親の知らない子を身ごもったという、不潔な女と思われ、さらには婚約者のヨセフを裏切ったという、最低の人間としての扱いを受けて生きるという、耐えられない試練を迎えていました。
この状況は、絶望の中で宿った子を憎み、思わぬ妊娠だったと周りのせいにしても当然な状況だと思うのです。
しかし、マリアはそんな、いつまでもくよくよしていられない、人間としての思いを打ち切り、神さまに自分を委ね、神さまの業の中ですべてが成し遂げられることを信じて、賛歌を歌っているのです。
「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。48 身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう」(1:47~48)と。
むしろ、絶望と闘ったほうがいい状況なのに、冷たい人たちの視線に対応して生きる道を探した方が合理的な状況だと思うのに、しかし、彼女はまるきり委ねて、神さまを讃美し、そして自分は「幸いな者」なんだと告白しているのです。
どうすればこんなにも強くなれるのでしょうか?
マリアは、認められたのです、神さまに。信頼されたのでした、偉大な方に。田舎の無名の弱い女性が、救い主を生む器として必要とされ、神さまに選ばれたのでした。無限の力を持っている偉大な方に目を留められ、信頼をいただいたのです。マリアの賛歌の力強さは、そこから出てきているのです。神さまは、マリアのような田舎のちっぽけな娘を選び取り、ご自分の偉大な計画を実現する者として用いておられるということであります。
神さまの働きに用いられるということは、こういうことだと思うのです。たくさん学んで、頭が良くて、能力があるから優れた弟子として用いられるのではない。神学的に教会の教理を知っているから用いるのでもない。人間的な美徳や確かな偉大な信仰によって選ばれたのではないということ。たとえ人々からさげすまれ、卑しめられた者であっても、無名で、弱くて、貧しくて、上手に生きる術を悟ったりできなくても、いいえ、そうでないからこそ神さまはご自分の偉大な業を成し遂げるための器として、卑しい者を選び取ってくださったということ。
マリアは、冷たい世の視線に耐える状況に置かれることによって、「神が自由でどんなに輝かしい方」であるかを知らされました。そして同時に、「人間が弱くなって絶望しているそこで神は奇跡を起こす方」であることをも知らされました。
つまり、神さまは人間の卑しさを恥と思わず、人間のただ中に入り、奇跡が起りそうもないところで奇跡をなしてくださったということであります。その結果、生まれたのが、飼い葉おけのキリストイエスであるということ。人々が「失われた」と嘆くところで、神は「見出した」と言って喜ばれ、人間が「裁かれた」と恐れるところで、神は「救われた」と励まし、人間が「否」と言うところで、神は「イエス」と、はっきりと言ってくださる。人間が投げやりな気持ちや高慢なゆえに目をそらせるようなところで、神は他では見つけることのできない、本物の愛のこもった目を向けられるということ。
神さまは、マリアを救い主が宿る器として選ばれました。それを通して神さまは、貧しい人々のただ中に生きようと決められたのです。病のゆえに自由を失い、権力の下で希望を失っている人々の中で共に生きようと、自由のないところに本当の自由をもたらすために、束縛の中に生きる人の群のただ中に生まれてくださるのです。この神さまを、この神さまがなさることを伝えたいです。マリアがそうであったように、私たちも、この方、救い主を受け入れて、たいへんな状況の中であっても喜ぶ者でありたいです。なぜなら、本当の喜びとは、「神がほんとうに自由で、どんなに輝かしい方」であるかを、私たちは知っているから、「人間が弱くなって絶望しているそこで神は奇跡を起こす方」であることを知っているから。
私の中に救い主が宿るということは、私は奇跡だと思っています。当たり前のことではなく、そして毎年同じくクリスマスを祝っているから適当なことでもなく、それこそ、毎年、救い主を迎えるということは、毎年、神の奇跡が私の中に起きていることだと思うのです。それを、どうやって伝えずにいられるでしょか。どうやって歌わずにいられるでしょうか。
ですから、救い主が生まれるという喜びに預かる私たちは、ただの傍観者として傍らに立ち続け、あらゆる光景にただ感嘆するだけでいることはできないと思うのです。神さまが人々の中に生まれ、貧しい人々とともに生きることを決意なさったように、私たちは、その方を自分たちの中に迎えいれて、救い主が家畜小屋でお生まれになるという出来事の中に参与していくのです。
参与者ひとり一人として集められてここにいる私たち一人ひとりに、神様は目を留めておられます。神さまに信頼され、信じられた者として、神さまは私たちを招いてくださったのです。私たちに何かできる力があるから招かれているのではなく、ただひたすら神さまの一方的な愛のゆえに、神さまに信頼された者とされ、救い主イエスさまを宿す者として、選ばれました。
このアドベントに、まだクリスマスの本当のメッセージを聞いたことのない方々に、この神さまの一方的な愛のメッセージが伝えられるように、用いられて行きたいです。