説教


待降節第四主日
2011年12月18日
 
心の底から喜び踊る
 

 聖書の中には奇跡物語がたくさんあります。特に、新約聖書の中には、イエスさまが多くの人たちの病を癒す奇跡物語があります。マルコによる福音書だけを見てみても、汚れた霊に取りつかれていた人からその霊を追い出したり、ペトロの義理の母の病を癒したり、重い皮膚病にかかっている人を清くしてくださったり、中風の人を癒し、安息日に手の萎えた人の手を伸ばしてまっすぐにしてくださったことなど、たくさんの癒しを通して奇跡を行っておられます。そして、長いキリスト教の歴史の中で、聖書の中の奇跡物語は、特に病を抱えている人には大きな希望を抱かせてくれました。ところが、それを読む現代の人たちには、昔に起きた、私とはあまり関係のない物語として受け止められている事実もありあす。

 人には、奇跡を信じるタイプと、そんなこと起るわけがないとはじめから信じない、二つのタイプがあると言われます。20世紀の代表的な科学者とも呼ばれるアインシュタインは、この世のすべては奇跡であると信じていたそうです。科学者であって、一つ一つを論理正しく証明する科学者が、この世のすべては奇跡であると言ったというのです。ということから考えるとき、奇跡とは、単なる一時的に異変が起るようなことを言うのではなく、それを信じる人の心に希望を与えるものであり、力に変わっていくものであると考えられないでしょうか。つまり、アインシュタインは、希望を持っていたということであり、こういうポジティブなマインドより、相対的理論が生まれるようになったということです。

 けれども、わたしは、ジャンボ宝くじが当たるような、偶然的なことを言うために奇跡について話しているのではありませんし、そういう奇跡が起ることは信じてもいません。もちろん、買わないから当たらないだけだという方は、いつか当たることを信じて毎回買っている方もいらっしゃるでしょう。しかし、本当の奇跡というのは、私たちに物質的な豊かさを約束してくれるものではないのですね。むしろその反対の目に見えないところを潤うわし、心の豊かさを増して幸せをもたらすものだと、私はそう理解しています。

 さて、今日は「ザカリアの預言」が福音書の日課として選ばれ、ルカによる福音書67節からにそれが記されています。
ザカリアは、洗礼者ヨハネのお父さんです。彼はユダヤ教の祭司でありました。彼の連れ合いはエリザベトで、主の母マリアの従姉妹になります。ザカリアとエリザベトは年を取っても子どもがいませんでした。それは、エリザベトが不妊の女性だったからと、聖書はそうしるしています。もしかしたら夫のザカリアの方に不妊の理由があったのかもしれない。しかし、医学の発達が進んでいない昔は、子どものできない理由を女性に問います。

 ともかく、ある日、ザカリアが祭司職を果たすために聖壇に近づいて香を炊いているところ、天使ガブリエルが現れて、妻のエリザベトに男の子が宿ること、生まれた子の名前をヨハネと名づけるように伝えます。そして同時に、その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなり、多くの人もその子のゆえに喜ぶと、ガブリエルは伝えます。

 しかし、ザカリアは天使の言葉を信じませんでした。それは、どう考えても、年を取った自分たちに、子どもができるはずがないと思い込んでいたからです。それでザカリアは「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」(18節)と、ガブリエルに向かって証拠を見せて欲しいと願います。

 その証拠だったのでしょうか。ザカリアはその時から口が効けなくなります。祭司なのに話すことができなくなったのです。ガブリエルは「神の前に立つものが言うことを信じなかったから」と、ザカリアの口が効けなくなった理由を話しています。

 それから10ヶ月。ザカリアは口が効けない時を過ごしました。思いもかけない神さまの一方的な恵みにより念願の子どもが与えられ、エリザベトのお腹は日々大きくなってきているのに、その喜びや幸せを言葉で言い表わすことができない。きっと、この状況の中で、いいえそういう状況だったからこそザカリアは体験したのでしょう。神さまの奇跡を。神にとってできないことは何ひとつないことを。

 月が満ちてヨハネが生まれました。ガブリエルに言われた通り、生まれた子の名前をヨハネと名づけると、硬くなっていたザカリアの唇や舌がやわらかくなり、言葉を話すことができました。そこで直ちにザカリアは預言を語り始めます。今日私たちが聞いています日課の「ザカリアの預言」がそれであります。

 10ヶ月もしゃべることができなかった人が、口を開くや否や預言を語り始める、ということ。10ヶ月も黙っていたから、話したいどんなに積もり積もっていたことでしょうか。神さまの奇跡はすでに起きていたのに、それに対する驚きや感謝や感嘆詞さえ口に出すことができなかった。その彼が、口を開くや否や語り始めたのは個人的な思いを語るのではなく、神さまから委託された預言の言葉を語りだしているのです。

 先週の木曜日は浦和のパルコで開かれた、中野裕己さんという人の講演を聞くために行ってきました。わざわざ聞くために行ったのではなく、智倫の学校のPTAの協力員として、動員されて行ったのです。「こんなに忙しい時期に関係のない講演なんか聴きたくない。本当に行きたくない」と思って、朝、食事中の智倫(息子)に言ったら、「たまには聞く立場になって見なさい」と言われて、が~んと、たたかれたような感じで、素直に行ってきました。

 講演の内容は、中高生の子どもを持つ保護者向けで、その年頃の子どもたちが心の中に持っている言葉を引き出すための保護者の役割のようなことでしたが、来て良かったと思いました。人の、語ることの大切さを考えさせられたのです。特に心の中に授けられていること、または心の深いところの中にある夢を引き出し、それを言葉にしていくということの大切さ。

 わたしは、この仕事に仕えるために特に聞くことを中心に学んできましたし、今も欠かさずやらなければならない作業が聞く作業であります。聖書から、この季節にこの箇所を通してみ言葉が語ろうとしていることはなんなのか!聞かなければ語ることができないから、まずは聞くことから説教の準備か始まります。

 本を読む力が本をたくさん読むことによって養われるように、聞く力も、たくさん聞くことによって養われます。しかし、多くの人がどこから聞けばよいか分からなくて、心がさ迷っている人が大勢います。そう言う方々が主のみ言葉から聞けるように、そのために教会は宣教をするわけなのですが、ですからここにいる私たちはとても幸せだと思うのです。私たちには、聖書から聞くことがゆるされていますし、毎週、ここにこれば説教を聴くことができるから、どんなに幸せなのでしょう。

 ところが、話が少しずれて行くかもしれませんが、私は、ここで説教をして6年目を迎えていますが、今まで、語られた説教についてちゃんとした感想を聞いたことはあまりなかったと覚えています。良かったとか、良くないとかの一言の感想は聞いていますが、もう少し長い感想はあまり聞いたことがありません。

 良い説教は、語る側が準備したことによって決まるのではなく、聞く側の力加減で決まってくるのだと思うのです。どんなに一所懸命に説教を準備したとしても、述べられる音だけを聞いてしまうなら、それは説教を聴いたことにはなりません。説教の中で流れているメッセージ、み言葉が、説教を通して何を語ろうとしているのか、それを聞き取らなければならないのですし、それを聞き取れるようになると、聞く力はますます養われるようになっていきます。

 そして、そのようにして養われた聞くための力は語る力へとつながっていきます。たとえ口下手で、知識が乏しい人でも、神さまのみ胸を語るように導かれるのです。つまりそれは、自分の力で聞いて語ると言うのではなく、み言葉を黙想する人にはみ霊の力が働くようになりますから、その力によって聞き、そして語るのです。み言葉を読み、日々の生活の中に祈りを習慣化するとき、その人は心の中に訪れるみ霊の働き、つまり、聖霊の働きと交わる体験をすることでしょう。

 ザカリアは、はじめ、ガブリエルが目の前に現れてこれから起きることを言っても聞きませんでした。音で流れる言葉だけを拾ったから、信じられなかったのです。そして、自分の常識の範囲の中でしか神さまの業を考えようとしなかった。つまり、この世的な価値観の中に神さまの存在を閉じ込めて、自分の知識以上は考えようとしなかったのです。
しかし、10ヶ月間の口の効けない時を経て、彼は、まだ来ない、だから見えない、これからのことについて預言をする人に代わっていきました。彼の、心の中で働かれたみ霊の働きが、10ヶ月の間、ザカリアを変えたのです。自分の知識やこの世の価値観を捨てさせ、合理的にではない、聖霊の働きによって人の力の及ばないところでこそ神の業は、奇跡は起きるということを彼は体験したのです。神さまのことは聖霊の力によって理解するように、主の霊が自分の中に宿ることを通してこそ、彼ははじめて奇跡を経験するのでありました。

 私は、神さまの奇跡によって病が治るのを体験したことはもちろんないし、見たこともありません。幻やその他のことを通しても奇跡ということを体験したこともありません。しかし、アインシュタインが言うように、この世に生命をもって生きるものはすべて奇跡を体験していると思っています。もうすぐ2012年を迎えることになりますが、新しい時が来るのは当たり前なことではありません。今晩寝ているときに何が起きるかわからない。まだ見えない明日を、確実に迎えられるということは、奇跡だと思うのです。そして、私が、この口を通して、イエス・キリストを主と告白していると言うことは、奇跡であります。神さまが私を選んでくださったといっても、私たちが従って生きますと告白し、ここまで歩んでこられたのは奇跡だと思うのです。そして、今、私のような貧しい者の中に宿るために救い主がやってきてくださっているということ。奇跡の中の奇跡です。

 ザカリアは、自分の中に起きている奇跡的な神さまの働きを、預言を通して讃美し喜んで語りだしました。私たちも、口下手なものではあっても、貧しいものであっても、その私たちが救い主の宿る場として選ばれ、神さまの偉大な働きが行われようとしていますから、それを語りだすものでありたい。私たちの心の中に訪れて、確かな働きをしてくださる方と交わったことを、独り占めしないで、言葉に出して行きたいのです。心の中でのみ霊との交わりは、私たちをそっとしていられるようにはさせないから、心の底から喜んで踊りだすほどの大いなる喜びであるからです。






聖書


 ルカによる福音書1章67~71節
67 「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、 68 我らのために救いの角を、/僕ダビデの家から起こされた。 69 昔から聖なる預言者たちの口を通して/語られたとおりに。 70 それは、我らの敵、/すべて我らを憎む者の手からの救い。 71 主は我らの先祖を憐れみ、/その聖なる契約を覚えていてくださる。