イエスさまが私たちのためにお生まれになりました。おめでとうございます。お生まれになったイエスさまは私たちの救い主です。この方が、私たちを死の力から救い出してくださる方です。この方に、悩みの多い歩みを委ねていきましょう。
さて、本日、イエスさまのご降誕を祝う私たちに与えられている福音書はヨハネによる福音書1章の言葉でありますが、そこには「光」と「いのち」、そして「暗闇」という象徴的な言葉が記されています。この「光」と「いのち」「暗闇」は、福音書の中でも特別な言葉として使われる言葉です。旧約聖書の創世記の1章のいちばん初めに出てくる言葉であり、神さまの創造の本質的な要素をもっている言葉であります。
そして、多くの人たちが、この「光」と「いのち」、そして「暗闇」を題材にして神さまのことを証しし、詩篇36編を歌う詩人も暗闇を貫き、光といのちを造られた神さまのことを歌っています。「命の泉はあなたにあり/あなたの光に、わたしたちは光を見る。」と。
ヨハネ共同体は、創世記第1章とこの詩篇36編を基盤に置きながら、「光」と「いのち」と「暗闇」を対照させて福音書を展開していると考えられます。そして、イエス・キリストを暗闇の中に差し出す「光」と「いのち」として証しているのです。本日は、このことを念頭におきながら、クリスマスのメッセージを聞いて行きたいと思います。
みなさんは「クリスマス」と聞くと何をすぐ思い出しますか?
年代によっても違うと思います。小さいときにはサンタクロスを楽しみにしていますから、クリスマス=プレゼントと考えるでしょう。若いときにはカップルでキャンドルの雰囲気を楽しみながらデートをする時としてクリスマスは用いられます。大人にとってクリスマスはどんな漢字でしょうか。
私には、昨年までは「忙しい!」というイメージでずっと移っていました。けれど、今年から余裕を持つようにしました。火曜日の受洗準備クラスで、今年初めて(日本に来て初めて!)習った言葉があります。「師走(しわす)」という言葉です。その通り、どうしてクリスマスは年末にあるのだ!と嘆きながら、クリスマスの喜びを味わわないままその準備でばたばたしていました。
今年は東日本大震災のことを通して多くのことを教えられた年でありました。震災の直後計画停電があり、この地域は夜の計画停電は一回だけでしたが、月がとてもきれいな夜でした。まだ英語学校を営んでいたときで、その日は最後の授業だったためにパーティを計画していまいた。他では電池やロウソクなど変えないたいへんなときに、教会というだけで使い残った蝋燭がたくさんあり、電気のつかない部屋を蝋燭の灯りでいっぱいに灯すと、部屋は蝋燭のやわらかい光に包まれました。そして外は、月の明かりで包まれた、言葉ですべてを現しきれない、なんともいえない夜でした。
そのとき、はっと気づかされたことがあります。私たちは、あって当たり前になっているもののために、本当の大切なものを見失っているのだと!
電気は、本当に便利だし、もうなくては困るものとなりましたが、そしていつも空気のように私たちの生活に密接していますが、その半面、本当の光がどれなのか分からなくさせているものでもあるということです。
昔の人たちは、月や星の光を頼りにして夜の道を歩いたことでしょう。月の明かりがある夜を選んで旅を夜の旅をしていたことと思うのです。そして、月や星を見上げるためにしっかりと頭を上に上げて歩いてことでしょう。なぜならば、月や星の明かりは、暗闇がすぐ人間の近くに存在するということをちゃんと知らせてくれるものだからです。電気の明るさは、この暗闇の存在を忘れさせるものであって、それは直ちに創造主と被造物との関係を分からなくさせ、創造の本質をも分からなくさせていく。それゆえ、神を信じるという信仰の本質を分からなくさせていくものであると、私はそう思います。
人は、暗闇を体験してはじめて本当の光を知るのであります。
それこそ東に本題震災は、日本全体を暗闇の中に落とし入れました。未だに津波による行方不明者がおり、避難所での生活や仮設住宅での生活、復興のためにまだまだ課題がたくさんあります。そして、福島原発による被害によって多くの人が一瞬のうちに故郷を失い、福島の人々をはじめ、日本全国に暮らす人々の生活そのものが脅かされています。人間が作り上げたものによって人間が破滅に陥っているのです。暗闇とはまさにこういう状態を言うのでしょう。
こういう状況の中、日本内外の多くの人の支援の手が東北へ差し伸べられました。たいへんな状況に置かれている東北の方々は、大きな犠牲を負いつつ、しかし、人と人との絆の大切さを、支援する側に教えてくれました。つまり、被災地に訪れたほとんどの人が、たくさんのことを学んできました!また行きたいです!と、他では体験できないことを体験してきたと話していました。暗闇の中にいる人を助けて言った人が、暗闇の中に輝いている光に出会ったのです。私はそう思いました。何か役立つことはないだろうかと、半分はと惑う気持ちで向かった被災地で、むしろ力づけられた。思いもかけない不思議な出会い、短い時間に作られる絆、仲間!いのちの尊厳…つまり、それは、本当の暗闇を体験してこそ分かること。
ヨハネは「光は暗闇の中で輝いている」と述べます。光の中に暗闇があると言うのではなく、暗闇の中に光があると言うのです。そして、その暗闇は、私たちのすぐ近くにあって、ともに存在するもの。それを見失ってしまっては、その中に輝く光をどうやって見つけ出すことができるでしょうか。明るさばかりを求めて夜も眠れない町をつくることが、人が人として安らかに生きる場にはならないことをヨハネは述べているのですし、まさに、東北の被災地の悲惨な状況もそれを語っているのではないでしょうか。
地震と津波によって、暗闇の中に置かれ、絶望の中でもがいていた東北の方々は、最も大切なものを犠牲にしながら日本全体に、本当の光、本当のいのちがどういうものであるかを教えてくれたのだと、私はそう思っています。つまり、大きな痛みを負って誰かの分まで生きようとしている方々の中には、それこそ本当の光が差し込んでいるということです。その光は、ヨハネが証しする真の光、闇の中で輝く光主イエス・キリストにほかなりません。
私たちの暮らしは、電気が明るくついているから、月の明かりがない夜でも、働くことができますし、歩くのにそれほど支障は感じません。ところが、私たちを働かせ、夜もどこへでもいけるように明るくしてくれる電気が人生の生きる道まで照らしてくれたりはしません。むしろ、人の生きるべき道を見えなくしています。なぜなら、人間の作り上げる化学文明は、本当の暗闇まで隠してしまうから。確かに存在するものを、まるで存在しないかのように隠してしまうのです。本当の暗闇を知らない人は本当の意味での畏れを知らないまま、つまり、創造主への畏れをもたないまま、ですから、自分が創造主に対して被造物であることを知らないままさ迷う状態で生きることになります。本当の光を作り上げられた方を知らない。それは、魂の渇きがどんなものか分からないまま生きていることと同じことだと言ってもいいかもしれません。魂の渇きを感じ、魂の潤いを求める人は、肉眼では見えない本当の光のある方向に向かって歩むようになります。
本日、5名の方が洗礼を受けます。
洗礼を受けるということは、大きな決断をなさったことと思います。つまり、この世が教えてくれる価値観をひっくり返して、聖書の神さまが求められる価値観に生きることを決断することであるからです。
この世の価値観は、この世で知識を増やして名誉を高めて、成功し、たとえ人に多少の被害を与えても、いいえ、人類を破滅に至らせるようなものを作り上げたとしても、それが文明の発達に貢献したことになるならば、それを誇りとして生きることを教えます。この地上での繁栄こそが真の生き方であり、価値ある人生であると教えるのです。
しかし、神さまの価値観はその逆であります。死ぬことこそ生きることを教えますし、この世での栄が栄ではなく、目に見える強さが本当の強さではないと教えます。生きるということは、目に見えるいのちの長さではなく、永遠のいのちの延長線上を生きることに、生きるという本当の意味を捉えます。つまり、暗闇の中に輝いている光、イエス・キリストを救い主とあがめ、イエス・キリストに従って生きることを本当の価値観と教えるのです。
この教えに従うことを、皆さんは決心なさいました。
そして、多くの先輩たちもこの教えのもとに決断をし、信仰の道を歩んでいます。先輩たちとともに、暗闇の中で輝く光に向けて歩む、本当のいのちを生きる道を生きてください。
イエスさまは、ヨハネ11:25で、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」とおっしゃっておられます。そして、8章12節では、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」と言っておられます。この方が、今日、暗闇の中に輝く光に生きる道を委ねている皆さまを祝福し、本当の喜びで満たしてくださいますように。皆さまに与えられる日々が真の光に向かって歩む日々でありますように、お祈りいたします。