新年、明けましておめでとうございます。
ことしも、皆さんがイエス・キリストのみ名のゆえに祝福された一年でありますように、お祈り申し上げます。また、みなさまのご家族をはじめみなさまとつらなる一人ひとりが、みなさまを通して働かれる主イエス・キリストの祝福に与る年でありますように、お祈り申し上げます。また、今年の当教会の歩みが、イエス・キリストの名を知らせる働きを全うする、祝福された歩みへと導かれますように、お祈りいたします。
見知らぬところを訪問するときには住所が必要になるように、愛を求めるときには純粋さが必要になり、笑いを求める際には、心を開いて言えるユーモアが必要になり、やりがいを味わうためには努力が必要であると言われます。そして愛と笑いとやりがい、この三つをいっぺんに手に入れるためには、真正性が必要になると言われます。しかし人は、その真正性を真面目さと錯覚して、ただ真面目でいれば愛も笑いもやりがいも手に入れることができると思う場合があります。そうではなく、本当の真正性には融通性が求められ、快い情熱さが必要とされるそうです。今年は、融通性のある快い情熱を発揮して、笑いと愛とやりがいを全部手に入れて歩む、祝福された年になりますようにお祈り申し上げます。
さて、新しい年の一日目です。イスラレルの民らは、一年の初日、一週間の初め、一日の初めの時間を、そして初めに借り入れた穀物を神さまにささげることを通して信仰生活を営みました。一年は365日、一日は24時間×365日=8760時間です。8760時間を私たちはどのように使って一年を過ごすことでしょう。そのうちのどれだけの時間を神さまのご用のために使っていくことでしょうか。
使い方によっては、「おめでとう!」と言って始めた一年が、良かったと、感謝して終えることでしょう。逆に、泣きながら閉じることになるかもしれません。一年の間どんなことが起きるか、私たちには分かりませんが、しかしどんなことが起きようとそれを受け止めて、それでも良かったと言える年として送られるかどうか。それは、私たちに与えられた一年、365日、8760時間のうちどれだけを主と共に歩むかによって決まることだと思います。主と共なる一年でありますように。
そのために、今年は、一つ意識的に直して、それを大事にして行きたいことがあります。「祈ること」と「祈る言葉」です。
私たちは祈るときに、「~してください」的な祈りを、無意識の中でしていませんか。「~してください」ということは、祈りを受け取る側としてはやるつもりもないのに、させられたことになる、そういう言葉なのですね。つまり、神さまに「~してください」とさせていること。これは、神さまを自分のしもべにしていることになります。もちろん、そういうつもりで祈っているのではないと思いますが、しかし、結果としては、自分の代わりに教会のために、病んでいる仲間のために、世界の平和のために働いてくださいと祈っていることになるのです。
たとえば、「この世を平和にしてください」と祈るのはやはり神さまを使っていることになる祈りだと思うのですね。神さまは、誰よりも先にこの世が平和でなければならないことをご存知なのです。ですから、そう祈るのではなく、「この世が平和であることを願い求めるときに、私は何ができるでしょうか。私たちの教会は何ができるでしょうか。私たちが世界の平和の道具として働くために必要なことを気づかせてください」というような、具体的に、なおかつ積極的に関わっていけるる祈りをすることが大事だと思うのです。
今年は、自分の歩みや生き方において、神さまにすべてを任せてしまうような歩み方ではなく、自分自身が率先して神さまの働きに参与していく、そういう歩みをしたいのです。そのために祈ることをだいじにしたいですし、祈り方に力を入れて生きたいと思っています。私たちが本当の意味で神さまのみ名を神さまのみ名として呼び、その名を知らせられるためにも、真の祈りを通してでありますし、その祈りは私たちの人生をより豊かで、愛することや笑いを生み出すこと、そしてやりがいのある人生であったと満足して感謝できる、そういう人生へと作り変える力であるからです。
さて、イエスさまが生まれてもう一週間が過ぎました。というか、もう二千年が過ぎていますが、一週間前に私たちは救い主イエスさまのお生まれを祝い、救い主がこの私のためにお生まれになってくださったことを喜び、楽しい時を過ごしました。
そして、今日、その八日目のときを迎えているのですが、八日目にイエスさまは、ユダヤ教の律法の定めに従って割礼を受け、その名をイエスと命名されます。「イエス」という名は、イエスさまがマリアの体内に宿る前からすでに決められていたものでした。それは、ルカによる福音書で、天使ガブリエルがマリアに現れて受胎告知をした際に、「その子をイエスと名づけなさい」(ルカ1:31)と言われた、その名であります。両親であるマリアとヨセフが考えて付けられた名前ではなく、神さまから直接与えられた名前なのです。
この「イエス」という名の起源は、最も古くはアラム語で「イェーシューア」で、それがヘブル語になると「ヨシュア」で、またこれがギリシャ語になりますと、「イエースース」になります。今、私たちが呼んでいる「イエス」は英語の表現であります。「イエス」の名前の意味は、「神<ヤハウェ>は救い」という意味です。
まさに、イエスさまはその名のとおり、神さまの救いのわざを完成させるために用いられますが、この「イエス」の名のゆえにどれだけの多くの人が罪の縄目から救われたことでしょう。それは、キリスト教の二千年の歴史を遡ることになりますし、今なお、私たち自身が、この名のゆえに救われている。この名のもとでつい一週間前に洗礼を受けました。この名のゆえに深い悲しみから救われました。この名のゆえに、この新しい年に希望をかけてスタートしています。ですから、イエスという名前は、私たちの生活や人生を通して讃えられ、知らされなければならない名前だと思うのですね。
先ほど交互に拝読しました詩篇8篇を書いている詩人も、神さまのみ名を讃えています。「主よ、わたしの主よ、あなたのみ名はいかに力強く、全地に満ちていることでしょう。」(詩篇8:2)と。
この詩人が神さまのみ名を讃えられる、その理由は、自分が人間であることを知っているからであります。自分が神ではなく人間であることを理解しているということです。
私たちももちろん、自分が神ではなく人間であることを知っています。しかし、無意識のどこかに、自分が人間であることを忘れてしまうときがあります。それは、自分の中にある限界を超えて、人との関わりにおいても、仕事との関わりにおいても、そして、自分自身との関わりにおいても、完璧さを求めていこうとする姿がそれであります。それが私たちであります。ですから、創造主との関係性の中において自分の存在を知らなければ、私たちは無意識の中で神をしもべとして使うことを繰り返し、自分が神の座にいることになってしまうということであります。
詩篇8篇の詩人は、この創造主を知っていたのです。数え切れないほど輝く星を空に飾り、それが落ちることなく静かに、そして秩序正しく動かしながらその美しさを見せてくださる方、創造主がおられる。しかし、その創造主のみ業をただ眺めるしかない、「人間は何者なのでしょう?」
つまり、神さまを信じる、創造主がおられることを知っているといいながらも、無意識のどこかでは、地上に永遠に留まることを求めて、地上での繁栄を祈る人間。そして、祈りの中で地上での幸福をお願いしたのに、無視された、見捨てられたと嘆くしかない人間。その人間に、その存在の理由さえ分からない人間に、神が目を留めて、顧みてくださっておられる。その人間は何者なのでしょう。
「神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ7 御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。8 羊も牛も、野の獣も9 空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。10 主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。」と、詩人は、神さまのみ業を讃えつつ、その神さまのみ業を生きるようにゆるされた人間である自分、その自分を祝福しておられる神さまに感謝をささげているのです。つまり、創造主に目を留められ、顧みられることを通して始めて人は、その存在の理由を知り、生きる理由を知るものであるということであります。
この神さまの目が、2012年をスタートしている私たちの上に注がれています。そして、神さまは、私たちに、その名を讃える者として立ててくださり、そして、その名を知らせる者として祝福しておられます。私たちは、この神さまを、私たちのためにお生まれになった救い主イエスさまを通して知るのです。イエスさまは、その名の通り、偉大な神さまの救いの業を成し遂げて、私たちを死から救い出してくださいました。イエス・キリストという名のゆえに、私たちは救われ、神さまの祝福と恵みの中を歩むようにされたのです。
パウロはこう言います。(1コリント15:10)
「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」
私が生きるのではない。神さまの恵みによって生かされていると、パウロは告白しています。この新しい一年の皆さんの歩みの中に、神さまから祝福のみ名が与えられたイエスさまが介入してこられ、愛と笑いとやりがいを手に入れて生きる年としてくださることでしょう。一年の最後に、本当に良かったと、感謝できる、そういう一年の歩みへ導びかれることを信じています。