新しい年をスタートしてこの頃になると、個々人の年間計画もある程度終わっているところだと思いますが、みなさんは今年どんな計画を立てていらっしゃるでしょうか。あまり特別なことを計画してもうまくいかない可能性が多いので、できれば日常的なこと、今までやってきたことの中にもう少しみ言葉を読み黙想する時間をプラスしていくような計画だったらいいのではないかと思います。もちろん、新しく何かを始めようとしている方はそれを特別なものとして挑戦してもいいと思いますが、個人にしても教会にしても、あまり特別なことにこだわっていると、毎日の歩みをないがしろにしてしまいがちでありますから、気をつけたいものです。
私が按手を受けることになったとき、ある先生がこのようなことを言っていました。
「毎日、毎週、同じことを繰り返すこと、それが牧師の仕事なのだ」と。そのときは言っていることの意味がわかりませんでした。しかし、牧会生活が長くなればなるほど、同じことを繰り返すことのすばらしさ、いいえ、繰り返すことができることのすばらしさがわかるようになりました。それは簡単なようで、それほど簡単なことではありません。
聖書は、「小さなことに忠実な人は大きなことにも忠実である。小さなことに不忠実な人は、小さなことにも不忠実である」と述べます。
毎日やっていることを繰り返してやっていくこととはこのことだと思うのです。毎日繰り返されること。生活環境によって多少の違いはあると思いますが、朝、昼、晩、ご飯を食べる。寝て起きる。洗濯・掃除をする。職場へ行って、時に怒られたり、ほめられたり、その中で新しい出会いもあるかもしれません。嬉しいことがあったり、悲しいことがおきたり、悩んだり、泣いたり…いろいろのことがあります。
これらのことは、一年後には思い起こすこともできないような、小さなことかもしれません。しかし、何でもないようなこと一つひとつに誠実に向かい合うこと。もちろん、場合によっては、あまり考えすぎないで適当に逃すことが必要なときもあるでしょう。そういうことを言っているのではなく、日々の歩みと誠実に向き合うことが、生きているという証しであると思うのです。そして、その生きていることへの証しが、大きなことを成しこなすことへつながることだということをみ言葉は言っているのでしょう。
今日は顕現主日であります。異邦人に救い主のお生まれの知らせが届いたことを喜びの中で受け止め記念して守る日です。東の国で光った救い主の星、曙の星は、星座を研究していた占星術の学者たちのところで輝きました。というか、曙の星が光るのをまず発見するのは、占星術の学者たちでした。彼らはその星を見つけると、直ちに救い主に会うための旅に出ます。聖書には書かれていませんが、きっと何の戸惑いもなく、待っていました!という思いですぐ立ち上がったのでしょう。そうでなければ、生まれてばかりの幼子に会うことは難しかったはずだからです。
良きお知らせを聞いたとしても、直ちに立ち上がるということは、よほどの思い切ったきっかけがなければ難しいことだと思うのです。彼らにとって救い主のご誕生は、それだけ思い切った決断ができるほど、大きなことであり、人生をかけてもいいことであったということでありましょう。とにかく今は救い主に出会うことだと、その時まで営んでいた日々の生活を後にできる勇気。私にとってはうらやましいくらいの勇気です。
占星術の学者たちは救い主に出会い、持って行った献げものを献げることができました。その夜、彼らは「ヘロデのところへ帰るな」という夢の中でのお告げに従って、別の道を通ってわが国へかって行きます。星占いを研究して、それを糧として生きていた彼らが、夢の中のお告げに従うのです。つまりこのことは、占って生きる人生からみ言葉に聞いて生きる人生へ変えられた、ということを述べている。私たちの中にはその反対の方がいらっしゃるかもしれませんが…^^
ともかく、彼らが夢の中でのお告げに聞いて、占いではなくみ言葉に従う別の道を通るようになったということ。彼らが通った別の道。夢の中のお告げによって示された道。それは、救い主イエスのゆえに、イエスに招かれた人に示される道であります。この道では、その時までの生き方がひっくり返されます。私が生きてこそ人も生きるということから、人が生きることが私が生きることだという生き方へと変わります。自分が生まれた星座に決められた運命に従って生きていた道から、どんなに険しい道であっても、イエス・キリストが共におられる道であれば、そこは全宇宙を作られた神さまが祝福してくださるいのちの道へ変わる、その道を歩まされるのです。つまりそこは、イエス・キリストが救い主として十字架の死を成し遂げ、復活のいのちにつながるようにしてくださった道。この世の合理的な価値観に相反する道、そこを占星術の学者たちは示されたのでした。
占星術の学者たちと同じように、私たちも異邦人であり、その私たちも、今日、年の初めにあたり、別の道を歩むようにここへ招かれました。つまりこのことは、今年の毎日の小さなことに忠実な人であるようにという勧めでもあると思いますし、その私たちを通して大きな働きが全うされていくということを示しておられることでもあると、私はそう信じています。
そして、小さなことに忠実であるということは、何かをやっている姿をいっているというより、生きる姿勢を言っているのではないかと思うのです。つまり、何らかの役割が与えられるということを想像させる言葉ではなく、他者が生きることこそ自分が生きるという、愛を表して生きる姿勢と言ったほうがいいでしょうか。少し違う言葉で申しますと、自立した人の歩みへ変えられること。豊かではなくても困っている人に、小さな力ではあっても、助けの手を差し伸べられるような歩み方。忙しい中で数週間見えていない仲間に連絡を取ってみたり。大人の自立とはこういうことを言うのではないかと思うのです。そしてこのようなことに誠実である人は、十字架の道を歩む大きなことにも誠実であるということでしょう。
そして、このキリストを頭とする教会が示して行く姿とはこういう姿だと思いますし、教会の宣教というのはこういうことだと思うのです。
先週、元日の主の命名日礼拝の際にお話しましたが、今年は祈ることと祈り方を大事にしていきたいとお話しました。祈ることは聖書を読むことといっしょに、キリスト者が行うべき基本的なことですが、今年はこの基本的なことをまずは大事にしていきたいと思っています。宣教というのは、何かをやることではありますが、そのやることを支えるのがみ言葉と祈りであります。祈るようになりますと、仲間の名前が挙げられます。特に困っている仲間の名前や病んでいる仲間の名前があげられるのです。仲間シップというのは、互いが離れていても、互いのために祈ること、祈りあうことを通して養われるものだと思います。
昨年、私たちの教会が掲げた宣教指針は、「あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分です」(1コリント12:27)でした。このスローガンの下で、私たちはどれだけの仲間を知り、どれだけの仲間と親しくなってきたでしょうか。この指針は、互いの置かれた立場がまだ分かっていないという理由もあって、役員会で考え出したものですが、しかし私たちは、何かを「やる」前に、その仲間のために「祈る」ことを怠り、その結果、仲間シップを養うこともできなかったのではないでしょうか。私自身も含めて反省すべきことであります。
仲間シップを養うことは、何かをやるということよりも、先ず先に、離れている時にその仲間の名前を祈りに出して祈ることから始めることでしょう。祈ることによって愛情が湧いてきます。仲間に近づく際にその祈りは生かされるのです。仲間シップと言うのは、そういった祈りの中で、祈りを通して養われるものだと思うのです。そこから始まる行動的なことはとても効果があると思うのです。誕生日の時に手紙を出してあげたり、病んでいる仲間に励ましの手紙を出したり、はじめてきた人に何なりと話をかけたりなど、こういう一つひとつが誠実に行われるようになるのです。そして、こういうことが重なってこそ教会の宣教へつながっていきます。病床にいるときに、教会のみんなからの祈りの中で書かれた手紙を何十通ももらって喜ぶ、受け取る側の気持ちを考えて見てください。病気も吹っ飛んでいく位の喜びが湧き上がる力となることではないでしょうか。
ヤコブの手紙は、「4:17 人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。」と述べています。
またイエスさまはマタイによる福音書の中で、「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。」(マタイ7:26)と述べております。
日常生活からぱっと立ち上がるということ、今までやったことのないことを始めることはそれほど優しいことではないことを、わたし自身よく知っています。しかし、今日、占星術の学者たちが、長い間待ち望んでいた救い主のご誕生の知らせに力をいただいて、直ちに立ち上がって旅たったように、そして、立ち上がったがゆえに別の道が示され、祝福された十字架と復活の道を歩む者とされたように、私たちも、立ち上がる力は、生まれた救い主イエス・キリストを通していただくのです。平凡な、地味な生活の中に聖書のみ言葉を黙想し祈ることを繰り返してやっていくときに、私たちの生活のただ中に共におられるキリストによって、光が示す道へ向かって立ち上がる力が与えられるのです。占星術の学者たちがそうであったように、イエス・キリストの十字架と復活の道、祝福された真の道を歩むように導かれるのです。
ここに招かれている皆さんが、この新しい年にはこの道から外れないで、まっすぐに光り輝くいのちの道、主の十字架と復活の道を歩む一年でありますように祈ります。そして、皆さんのそういう姿を通して、まだその道を知らない人たちが救い主の祝福の道に導かれますように祈っております。