教会には、ミシオ・ディと言う言葉があります。これはラテン語ですが、ミシオは英語ではミッションと言いまして、宣教とか伝道という言葉です。ディは神さまのことです。ですから、ミシオディを翻訳すると、神の宣教と言えるでしょう。つまり、神が先立って宣教しておられることを指す言葉です。誰も歩いたことのない道を神さまが先立って、人が歩きやすいように開拓してくださっていると言う意味になります。この言葉は、教会の古い宣教歴史の中で用いられてきた有名な言葉ですが、しかし、今の教会ではもはや忘れられた言葉となっているのではないかと思います。
さて、本日の福音書の日課では、イエスさまは、パプテスマのヨハネが捕らえられたことを聞いて立ち上がっておられる様子を見ることができます。
当時のヨハネの人気はイエスさまよりも高く、人々に、預言者として受け入れられ、さらには、当時ヨハネが活動していたユダヤ地方を治めていたヘロデ・アルケラオさえ、ヨハネの人気振りに人目おいているくらいでした(悪い意味で)。そのヨハネが捕らえられました。その理由は、ヘロデ・アルケラオの不正な結婚について正しいことを言って、指摘したからであります。
人は、正しいと思っても、思ったまま言わない方が長く立場を保つようになるものだと思います。私も、正しいと思ったらすぐ口にしてしまうタイプなのですが、言うまいと思っていてもそういう場面になるとだめなのですね。
パプテスマのヨハネはそう言う人でした。
当時、イスラレルは三つに分けられていましたが、ヨハネが活躍していたユダヤ地方で、ヘロデ・アルケラオがそこを支配していたと申しました。彼は、ヘロデ大王の息子の一人であります。ちなみに、イエスさまが活躍していたガリラヤを支配しているのは、ヘロデ大王の息子のもう一人のヘロデ・アンティパスです。
ユダヤ地方を支配していたアルケラオは、兄弟の妻を自分の妻にしていて、それによって神さまの戒めを犯していました。ヨハネが指摘したのはこのことでした。「あの女と結婚することは律法で許されていない」と、正しいことを言った。それによって、その妻となったヘロディアという女性の憎しみをかい、ついには牢に入れられ、牢の中で首を切られていきます。
このことを聞いてイエスさまは立ち上がって、ガリラヤで宣教を開始なさったのです。「14ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、1:15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。」(マルコ1:14-15)と言う。
このガリラヤというところは、当時、イスラレルを支配していたローマの政治的な力が最も働くところで、重要な位置を示したいたぶんだけ、政治的にとても危険な場所でした。なのに、イエスさまはわざわざ住んでいたガファルナウムというところからガリラヤへ出て行くのです。福音宣教のために、です。普通は、少し時間を置いてヨハネのニュースがしずかになることを待とか、ヨハネと同じことをするのをやめるなど、いろいろと考えて、安全な確認が取れたら立ち上がるでしょう。
しかし、イエスさまは、それどころか、弟子作りまでヨハネと同じようになさるのでした。弟子たちを、一人でもなく二人四人もいっきに呼び寄せて、目立つような活動を始めておられます。
「石橋をたたいて渡る」と言うことわざがあります。念には念を入れるという意味です。大丈夫と思えるようなことでも、もう一度確認をして、確かめてから進めることを言っているでしょう。または、人をすぐ信じないように、という意味も入っている言葉だと思います。
この頃、年を取ってきたなと思うことは、石橋でも叩いてみるようになった、と言うことです。それでも皆さんには、もう少し叩いていただきたいと思われていることと思いますが、私としては、前と比べると、だいぶ抑えて物事を進めていると思っています。
しかし、本日イエスさまが見せてくださる姿を見てください。一方踏み出したところでヨハネの仲間だと疑われたら捕まるかもしれない、そんな状況なのに、その中へわざわざ入っていくのです。
ミシオディ!神の宣教とはこういうことを言います。自分より先に歩まれる方に危ない状況は委ねて立ち上がるということ。自分がやるのではない、ということ。イエスさまの前には神さまがおられるということです。それが信じられる信仰。イエスさまの宣教の歩みは、常にこの信仰の歩みでありました。十字架刑に自分を委ねられる際にも、イエスさまは神さまにご自分を委ねておられました。「わたしの魂を神さまに委ねます」と、その死を委ねられる信仰。復活と言う新しい命がもたらされたのは、このような歩みの中にあってであります。
(智倫が小さいときに杉並教会に通っていた頃の思い)
いろいろと考え判断することのできる大人には、自分の先を誰かに委ねてしまうことは、なかなか難しいことです。私たちには、計算できる頭があり、物事を判断できる理性があり、人を識別できる知恵があるからです。目に見えない神さまが自分の先を歩まれることを考えないのはもちろん、初めからどうやったらできるかをまず計算して、それから信仰生活を考えるから、委ねて立つことはなかなか難しいことであります。
しかし、人間的にいろいろと計算して立ち上がるのは、一見早道のように思えても、神さまの宣教の道は人の計算の中では進められないことを、今日のイエスさまの子どものような、対策なく、まったくのすべてを神さまに委ねて立ち上がる姿から学ぶことができるのではないでしょうか。
そのイエスさまに召されていく弟子たちの状況を見てみましょう。
本日呼ばれた弟子たちは、四人とも漁師でした。彼らは、ヨハネが捕らえられた状況の中で伝道活動を始められるイエスさまに呼ばれて、直ちに立ち上がりました。家族と別れを告げる間も与えられないまま、船も、手入れしていた網もそのままその場において、イエスさまの召しに応えていくのです。
そんな彼らは、まるで何も考えていないように、聖書は何も書いていませんが、しかし、立ち上がる彼らの中に葛藤がなかったとは言い切れません。残した船はどうしよう、網もお父さんに任せたままで大丈夫だったのか、それよりも何よりも、家族のことや家計の収入源がなくなってしまったらみんなはどうなるのだろう?いろいろと気になっていたはずです。しかし、彼らは、それらをすべて抱えたまま、葛藤の中で従うことを求められます。きれいに、すべてが解決してからそれからついていきます、という世界ではない。
ミシオディという、神さまが前に歩まれる宣教に従うということは、葛藤も、心配ことも、すべてを前に歩まれる神さまに委ねて従うと言うこと。ですから、人の計算で出た答えによって進めることでもなければ、この世的な合理性に教会の宣教活動を合わせていくことでもないとうこと。そして個人の信仰のあゆみも、同じだと思うのです。病気だったら、病気を抱えたまま、お金がないならば貧しいまま、仕事が忙しいなら忙しいまま、人間関係がうまくいかないならばそのまま、それらすべてを委ねられる方がおられることを信じられる信仰。
イエスさまに召されて従った弟子たちも、きっと悩んでいたのではないかと思うのは、このような言葉をイエスさまがおっしゃっておられることから分かります。
「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」(ルカ9:62)。
私も、何度もあります。苦しくなってくると違う道の方が良かったのかも、と思うときがあります。そう言う人は、神の国にふさわしくない!と。
ここで言う神の国にふさわしくないと言う言葉は、地獄に落ちると言う言葉ではありません。神の国にふさわしくないということは、ミシオディを信じますか。神さまがあなたの人生の先を歩んでおられることを信じますか。いいえ、前におられるだけではなく、寄り道していたら側に立ち、時に転んだら起き上がらせ、なく崩したら背負って、どんなときも離れないで一緒にいてくださる神さま。この方があなたの人生のただ中におられることを信じますか、ということが問われているのです。私の今の状況がどんなに険しくあろうと、その状況のただ中に神さまが共におられる、いいえ、私がその状況を通り抜けて前へ進めるように神さまが道を開いてくださっているということ。病に襲われるただ中、老いが迫ってくるただ中、人間関係がうまくいかない中、失った愛するものを思い出し悲しみに伏すただ中、どのように、どこへ進めばいいか、道が見えない、先が見えない、希望が見えないそこで、神さまが進む道を作って、希望を作っておられる。いのちを差し出しながら、私の歩む道を作ってくださっているということ。
本日、詩篇62編詩人は、その最後に「ひとつのことを神は語り/ふたつのことをわたしは聞いた/力は神のものであり62:13 慈しみは、わたしの主よ、あなたのものである」と告白しています。
ミシオディの神の宣教を信じて、自分の状況を委ねて歩みだすということはこういうことを悟ることではないかと思うのです。
神さまが一つのことを語ってくだされば、従う私たちには二つのことが聞こえると言う状況。なぜなら、私たちの歩みの中には、私たちの置かれた状況がどうであろうと、イエスさまが一緒にいてくださるから。一人じゃないのです。私だけの視点でみ言葉に聞いたり、生きることを考えたりしているのではないのです。私たちと共にいてくださるイエスさまが信じて、委ねて、歩みだされる宣教の道、私たちの人生を通して開こうとしている祝福の道の先に、真の力をもっておられる方がおられます。この方には、真の慈しみの愛もあり、それがまっすぐに私たちのところに向けられています。これを信じる歩みへと導かれますようにお祈りいたします。