温暖化に慣れつつある私たちにこの頃の寒さは耐えがたいものです。2012年も、もうひと月が終わり、2月を迎えています。昨日は、二四節気の一つの「立春」でした。「立春」と聞くと、春がやって来るのだと嬉しくなります。極寒(ごっかん)の中でも、こういう知らせがあるから希望を持って乗り越えられるのだと思いました。
また2月にはもう一つ、「雨水」という、二四節気の中の一つがあります。2月の19日の日曜日にあたりますが、「雨水」とは、今まで降った雪や氷がやってきた暖かい気運のために溶けて水分となり雨となって降る時になったことを意味するものだそうです。この雨で土の中でじっとしていた根っこや種が動き出し、そして芽を出して花を咲かせ、枝を伸ばして緑を豊かにし、実りをもたらすのでしょう。
今年は日本各地、特に日本海では雪が多く、尊いいのちを失う事故も多かったのですが、早く雪が溶けて、雨となり、人々の暮らしが楽になることを願うものであります。
昔の人たちは、一年をこのように二四の季節に分けて、どんな環境の中でも、もうこれで終わりではない、すぐ新しい季節がやってくるという希望を大事にしながら生きていたことでしょう。
私たちは、特に若い世代は、二四に数えられる季節を覚えている人は少ないかもしれませんが、その折り目、その節目を大事にしていきたいものです。それがまた今を無題にしないで、大事な時として生きることにつながることだからです。
さて、本日与えられています福音書の日課に入りたいですが、今日は、イエスさまの一日のスケジュールを見ることからみ言葉に耳を傾けたいと思います。
本日の日課の始まりは、「すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。」(29節)という言葉から始まっています。先週聞きました日課の続きですが、イエスさまご一行は、安息日だったので会堂で礼拝をしておられたのです。そこで教えておられ、さらに、汚れた霊に取り付かれた人から汚れた霊を追い払っておられます。
そして、礼拝が終わってシモンの家に行ったら、そこでもシモンの姑が熱を出していたので、そこでまた癒しを行い、彼女の体を回復させます。そして、夕方になると、今度は大勢の人が病気を癒していただこうと、シモンの家の入り口に集まったと。その人たち一人ひとりと向かい合い、病気を癒し、渇いた魂を潤せてくださることにすべての時間が使われる。イエスさまの安息日の一日の流れはこのように描かれています。
どこで食事をなさい、どこで休みを取っておられるのか分かりません。病を抱えている人、魂の渇きを訴える人々と向き合うことの他に、まるでイエスさまに許されたことは、それ以上はなかったかのように描かれるのです。さらには、いつ寝ておられるのかも分からない。35節では、朝早くまだ暗いうちに、イエスさまは祈るために人里はなれたところへ出かけておられます。まあ、唯一一人になれる時間でもあります。しかし、人の病を癒したり、み言葉を述べ伝えて渇いた魂を満たすためには、祈らなければ、祈って神さまから力をいただかなければできないことだからです。
イエスさまはどんなときも祈られる方でした。ご自分が捕まえる夜も、ゲッセマネの園で祈っておられました。愛する弟子に裏切られ、売られていく。ファリサイ派や律法学者をはじめユダヤ人たちは、イエスさまのことを、神を冒涜した人という罪をかぶせて殺そうとしている。そのために、兵士たちが捕まえに来るという緊迫した状況のただ中でも、イエスさまは祈っておられました。「この杯をわたしから取りのけてください。」(マルコ14:36)と、切実に祈っておられた。
この「杯」とは、イエスさまが死刑の罪に処せられていくことです。しかし、イエスさまの祈りはそれで終わりません。「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコ14:36)と祈られます。最終的な決断は神さまに委ねるのでした。たとえ、自分の命が殺されるということであっても、それでも、神さまに委ねる。
宣教をする人の姿勢はこのイエスさまから見習わなければなりません。
ヨハネが捉えられ、殺されたことを知って、「悔い改めなさい、神の国は近づいた」という宣教のスローガンを叫びながら立ち上がられたイエスさまは、今、ガリラヤにおられ、そこで宣教をしておられます。このイエスさまの宣教の対象になっている人々。ガリラヤの住民たちは、霊的に渇いていました。会堂で行われる礼拝の中で民らは満たされていなかった。それは、イエスさまが会堂や村を回りながら教えておられるときの人々の反応からわかります。人々は、今までこのような説教を聞いたことがなかった、新しい教えだ!と、とても喜び、驚きの声を上げていました。それだけ魂が渇いていたのです。
ガリラヤのあっちこっちでは、多くの人が病気で苦しんでいました。肉体的にも精神的にも。精神的な病は、汚れた霊に取り付かれたと表現していたと言われています。医学が発達していない宗教的な世界ではそういうふうにしか捉えられなかったのかもしれません。肉体的な病も、先祖の誰かが罪を犯したから子孫が病気になったのだといって、重い病は罪の結果として捉えられていました。ですから、精神的にも肉体的にも病にかかっている人たちは、二重三重の重荷を背負わなければなりませんでした。イエスさまが祈りをして出かけて会ってくださる人たちは、このような人々、二重三重の苦しみを背負っていて、一人では座り直す力さえない、弱い人たちでした。その人たちのところへ出かけるためにイエスさまは、朝早く、まだ暗いうちに出かけて、祈っておられるのです。そして、「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と、神さまのみ心に適うことが今日一日出会う一人ひとりを通して行われますようにと祈っておられるのです。
「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と祈るのは、「み心に自分のすべてを委ねて従います」という強い決断の意志表示(いしひょうじ)でもあります。
私たちは祈るときに、わたし自身がそうですが、あることについて祈っても、そこに御心が働く前に自分の力ですでに方策を考えて、取り組んでいたりします。祈ったけれど信じないのです。私の祈った祈りに御心が関与してこられることを。自分で何とかしようと頑張って、できなかったらがっかりするような、それが私たちの信仰の歩みであり、またそれは、神の前の人間の傲慢な姿でもあります。神さまに祈っておいて、実は、最後の答えを自分が出していること。これは、神さまのことを欺いていると言えるでしょう。
きっと、今日も、まだ暗いうちに人里はなれたところへ出かけられたイエスさまは祈っておられることでしょう。「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と。ガリラヤの多くの人々と出会うときに、その人に御心が行なわれますようにと。人里はなれたところでのイエスさまの祈りの内容の詳しいことはわかりません。けれど、イエスさまの祈りなら、きっと最後はそう祈って終わるのに違いない。するとこれは、凄いことです。イエスさまを通してちっぽけな一人に御心が働かれるのですから、考えられないことであります。
病のゆえに、貧しいがゆえに、社会的な地位が低いがゆえに虐げられていた、さらには、ローマの権力に苦しめられているガリラヤの人たちが「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」というイエスさまの祈りに入れられていく。イエスさまに出会う前には、毎週の安息日の会堂の礼拝でも、どの祭司の説教によっても、背負っていた重荷を降ろすことはできなかった。だけど、イエスさまがそれを降ろしておられる。
余談ですが、ここで、少し宗教と福音の違いについて考えてみたいですが、私たちは、ともすると、宗教の名前に騙されて、もっと大切なものを失ったまま信仰生活を営みがちです。つまり、キリスト教というのはイエスを救い主と告白する群れの集まりですが、キリスト教=救い主ではない、ということです。イエスが救い主であって、キリスト教が救い主ではない。難しく聞こえるかもしれませんが、私たちの宗教は間違いなくキリスト教です。しかし、キリスト教を信じているのではなく、救い主イエスを信じているのです。これを区別しないでいますと、いつのまにか、教理に生きる信仰を生みやすくなります。「教理」とは、洗礼を受けられた方は覚えていらっしゃるでしょう。・・・それは、あくまでも教会の秩序を立てるものであって、それ=福音ではないのです。
カール・バルトという人は、20世紀の有名な神学者ですが、彼が言った言葉の中に「宗教的な人間」と言う言葉があります。本も出されていますが、分かりやすい言葉で言えば、教会の教理を信仰の道しるべとしている人のことを指していると言えるでしょう。教会の教理は頭で学び、頭で理解します。それで十分なものです。しかし、福音は、イエス・キリストは、頭で受け入れられない。熱く動いている心臓で、体全体で、私たちの全人格を通して受け入れるものであります。なぜなら、福音はその人を変えるものでありますから。しかし、教会には教理をよく理解し、それに導かれていること=信仰が強い人とされている現実があることに、私は非常に悲しいです。
ですから、私たちは、イエスと出会わなければならない。
ガリラヤの人たちが、朝早く、暗いうちに祈って出かけられたイエスと一対一で出会って、その病を癒され、渇いた魂に恵みの雨を降らせていただいているように、私たちも、このイエスにこそ出会うのです。ガリラヤの住民の一人になって、二重三重にも背負っている重荷を降ろすのです。霊的に渇いて、孤独で、病気を抱えて、一人では座りなおす力もない弱い私に御心が働かれるように、イエスさまを通して神さまの御心に預けられた人生を生きられるように、イエスにこそ出会うのです。
今年、私たちの教会は、宣教六十周年を祝う年になりました。今日行われる会員総会の中では、これからの始まる新しい宣教についても話し合われることと思います。私たちの教会の宣教が、このイエスを通して働かれる神さまを伝える宣教でなければ、それは意味のないことと思います。教会の教理的なことだけが伝えられるならば、教会はファリサイ派の群となってしまいます。そうならないためにも、私たち一人ひとりが、祈って出かけられるイエスに出会い、私たちを通して神さまの御心が行われることを体験する者でありたいです。そして、その私たちを通して、まだ福音に出会ったことのないもう一人が福音に預かり、神さまの御心に預けられ、背負っている重荷を降ろして、罪ゆるされた人生を生きられるように導いていく、そう言う宣教をしていきたいです。
みなさまの、今週の歩みがこの主イエスキリストと伴われる歩みでありますように。アーメン。