自分の生涯であっても、その中の、あのこと、このことが、奇跡的に変えられたらと願うときがあります。特に医学の力では直らないと言われている病気を抱えている場合は、それこそ奇跡で治したいと願うわけです。人間関係でも同じです。また、この世の中のあらゆることにつても、人間がどんなに努力しても、どうにもならないことは少なくありません。何か奇跡が起きて、一度に解決される道はないだろうか、武力でもって弱い国を攻めいく独裁者を奇跡的なやり方でその座から降ろしていく方法はないだろうかと、願うわけであります。
しかし、そう願いながらも、本当に奇跡が起ったときには、それはどうもおかしい、そんなことはありえないと疑い、起きた出来事に対してバカにするような姿勢をとるのが、また私たちでありましょう。奇跡的なことを求めながら、なぜ、奇跡について謙虚になれないのでしょうか。そのようにしか受け止められない、そこには、多くの問題があるからである。今日の福音書の日課から聞いていきたいです。
さて、先ほど拝読していただいた話は、イエスさまが、四人の人によって連れてこられた中風の人を癒すことから始まります。この病人は歩くことができないので、担架のようなものに寝かせられて運ばれてきました。しかし、小さな家の入り口は人でいっぱいだったので入ることができず、四人は屋根をはがして、そこから担架を降ろします。
イスラエルの家の構造は日本の家と違って屋根が平らなので、はがすのもそれほど複雑ではないそうですし、屋根からものを降ろすことも、それほど珍しいことではなかったようです。本日の日課でも、屋根をはがしたことを問題としているところはどこにもありません。それよりも、問題になっているのは、イエスさまが病人を癒す際に言われた言葉が、そこにいた何人かの人にとって受け入れられない言葉として問題視されています。
イエスさまは、中風の人を癒す際に、「子よ、あなたの罪はゆるされる」とおっしゃいました。この言葉がある人たちには問題となりました。そして、「この人は神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪をゆるすことができるだろうか」と心の中で呟きました。その心の呟きを聞いたイエスさまは、「『あなたの罪はゆるされる』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』というのと、どちらが易しいか」と逆に問われます。
ここに、実は、人間が神の力を求めるとき、あるいは、神の力を考える時に起ってくる問題があります。「『あなたの罪はゆるされる』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』というのと、どちらが易しいか」。どちらが易しいでしょうか?『起きて、床を担いで歩け』と言うのは奇跡であります。担架に横たわって、人に運んでもらうしかない病気の人が、立って歩き出した!みんなびっくりすることであります。起きあがってほしいと願って、求めていた奇跡が目の前で起きました。神の力が見える形で現れました。
反面、『罪がゆるされる』というようなことは、目に見えることではありません。また、そのことがどんなに重要なことか気づく人も少なければ、罪のゆるしは神の力によらなければならないと思う人も少ないのです。だから、もしかしたら、罪のゆるしの方が易しいと思うのではないかと思います。ですから、どちらが大事なのか。そして、そのどちらが易しいかということを決めるには、考える人の中にどういう問題があるか、それを考えてみる必要があると思います。
使徒8:16~24には、使徒たちが奇跡を行なうと、その奇跡を行なう力を売ってほしいといって、買いに来たシモンという人の話があります。また、使徒16:16~24には、フィリピでパウロが奇跡を行なうと、自分の占いの商売が売れなくなって困るので訴えたために、パウロたちが捕らえられた記事があります。もしも、あの昔のパウロの時代のように、教会が人の病気を癒す癒しを行なっているとするなら、キリスト教には入りたくないけれど病気を癒す力を教えてほしいといって金を持って来る人がいるかもしれません。しかし、そのように、奇跡を金で買いに来る、と同じことを、実は、自分たちがやっていることに、私たちは気がついていないのではないか、ということであります。
私たちは、自分の病気が神の力によって癒されたり、自分の不幸な生活が神の力によって救われたりすることを願っています。しかし、それは、思うほど易しいことではないことを、また知っています。しかし、それの難しさは知っているけれど、奇跡さえ行ってくれれば、神さまは、あってもなくてもいい。奇跡を買いにきた人の話のように、神は信じないけれど、その奇跡を行なう力さえ与えられたら、それで満足だという気持ちが、実は、私たちの信仰の底辺に非常に強く働いているのではないかと思うのです。
このことは、違う風に表現しましたら、神の名を売って、それによって自分の居場所を確保しようとする人間の欲望、または人間の地上天国主義のように、この世での繁栄さえできればと思う人の貪欲であると言えるでしょう。だからそこでは、信仰が分からなくなる。自分さえ良ければ、自分の求めるものさえ与えられればいい。病気さえ治って、健康であればいいのです。信仰はあってもなくてもいいのです。こういう問題を抱えたまま信仰を営み、伝道だということでそれを伝えていくときに、それは結局神さまを伝えるのではなく、偶像を伝えることに他ならないことに気づかなければなりません。
イザヤ書44章9節からには、偶像を造る造り方が細かく記されていて、どんな人が偶像を造るのかなど書いてあって、とても面白いです。12節から具体的に書いてありますが、偶像を造る人は偶像を造るのに、柏(かしわ)や樫の木を用いるのだそうです。その続きを読んでみますと、「人はその一部を取って体を温め/一部を燃やしてパンを焼き/その木で神を造ってそれにひれ伏し/木像に仕立ててそれを拝むのか。44:16 また、木材の半分を燃やして火にし/肉を食べようとしてその半分の上であぶり/食べ飽きて身が温まると/「ああ、温かい、炎が見える」などと言う。44:17 残りの木で神を、自分のための偶像を造り/ひれ伏して拝み、祈って言う。「お救いください、あなたはわたしの神」と。」(イザヤ44:15~17)というのです。
これは、偶像を造って拝む人の気持ちを、実に徹底的に暴(あば)き立(た)てた有名な言葉ですが、実は、私たちが神を求めようとするときの自分の気持ちを考えて見ますと、この偶像を造る人の気持ちに似たところがあるのではないかと思うのです。それは、私たちは神を信じているといいながら、心の中で求めているのは、自分の求めが満たされること、病気にかからないことや、または治ること、生活が幸せで人との関係改善や将来の夢が適えられることなどさえ満たされればいい。つまり、自分にとって利益があるかどうか、自分がそれによって得をするかしないかの方へ神が利用されているということ。
イエスさまは、「罪がゆるされる」と言うのと「床を担いで歩け」と言うのとどちらが易しいか?とお聞きになりました。自分は「罪がゆるされる」と言ったが、あなたたちは、「この病気が治れ」と言った方がいい、と考えているのか?という問いかけです。人間の生活にとって、どちらが中心なのかと聞いているのです。この問いかけを聞きながらも、もし、私たちが、奇跡を中心に答えを考えているとするならば、先ほど申しましたイザヤの言葉のように、自分にとって神は、自分の生活の余りだけで造るのと同じことになるのです。
もちろん、私たちは、イザヤが言うようにちゃんと寸法を計ったりして、偶像は造りません。しかし、私たちの信仰生活の仕方を見れば、偶像を造っているかいないかは、すぐ分かります。私たちの信仰生活の仕方は、自分に必要なことはみなしてしまって、余った時間だけを信仰に用いるか、あるいは余った力だけで神に仕えるような生活をしているのではないかと思います。私たちの生活全部が、どこにおいても、神に仕え、神によって生きるものとはなっていないのではないでしょうか。それならば、偶像を造るのと同じことであります。そして、奇跡を行なう力だけを買いに来た人の話のように、本当にほしい物はそれだけであって、神は二の次、少なくとも、どんな神であっても構わないということになる恐れさえあるのです。どのようにして自分が得するかということだけなら、結局はそうなるのではないかと思います。
ですから、そこで、私たちが考えなければならないことは、本当に、神の力をいただきたいと思うのであるならば、奇跡というものは、ただ自分に手ごたえがあったかどうかではなく、神の方に手ごたえがあったかどうか、ということから始まるということであります。
マルコ5章には、長い間病気で苦しんでいた女性が、イエスさまの衣に触れただけで病気が治った話しがあります。
そのとき、イエスさまは大勢の人と一緒に歩いておられました。ですから、あの人やこの人が、横でも、前でも後でもイエスさまに触れている人は大勢います。しかし、イエスさまは群衆の中で振り返り、「『わたしの服に触れたのはだれか』」と探しておられました。この女性の場合だけ自分から力が出たことが分かったのです。つまり、イエスさまの方に、手ごたえがあった、ということ。本当の奇跡というのは、こういうことだと思うのです。真の奇跡と言うのは、自分に手ごたえがあると同時に、神の方にも手ごたえがあるはずのものであると。いいえ、神の方に先に手ごたえがあって、次が人間の方であります。
さて、「罪がゆるされる」と言うのと「床を担いで歩け」と言うのとどちらが易しいか?と聞かれたイエスさまは、最後に「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と、中風の人に言われます。この起き上がるという言葉は、イエスさまが復活の際に死者の中から起き上がる、という言葉と同じ言葉です。ですから、復活のいのちがあなたの全生涯、生活のすべてに満ちているから、もう、神の力を自分が自分の生活に利用して、自分の努力によって生きるのではない、ということ。自分から信じて生きるのではなく、神に信じられた者となって生きるのだ!ということ。
つまりこのことは、神さまが私たちのことを先に考え、私たちの生活のために心を用いておられるということ。それを知らされた者となって生きなさいということ。神さまの命がこの罪人のために捧げられ、神さまの心がこの私に注がれている、私たちの全生涯に神ご自身が用いられているということ。これは、どんな奇跡よりも大事なことであり、もはや私たちの罪が数えられず、罪ゆるされた者とされた、ということであります。
さあ、起き上がって歩きましょう。そして、いのちをささげながら私たちの全生涯に入ってこられ、働いておられる神さまを、周りに伝えていきましょう。