説教


変容主日
2012年2月19日
 
私の山を降りて
 

 聖書の中には、山を中心にして展開される人々の物語がたくさんあります。
私たちが分かりやすいところを挙げてみますと、出エジプト記の3章に、モーセが召命を受ける場面があります。
 モーセは、エジプトの王子として育てられますが、殺人の罪を負ってミディアンの地へ逃げてゆき、そこで結婚をして、羊を飼う仕事をしながら暮らすようになります。そのある日、羊たちを追って山の奥の方へ行きますが、その山は神の山と言われるホレブ山でした。そこで、モーセは「モーセよ、モーセよ」と呼ばれる神の声を聞くようになります。ホレブ山で神さまはモーセに会ってくださったのでした。そして、エジプトへ降って行き、エジプトの奴隷となって苦しんでいるご自分の民を導き出すように、託されます。
 それ以来、モーセとイスラレルの民は、荒れ野をさ迷う際にも、山を中心に進み、山から語りかけてくる神さまのお声に導かれながら約束の地に向かって進むようになります。

 山から語りかけられる神さまの声に聞くという信仰が、旧約聖書の人々の信仰にはあったのかもしれません。詩篇の3章では「主に向かって声をあげれば/聖なる山から答えてくださいます」(詩篇3:5)と、詩篇記者は、山におられる神さまに祈りをささげ、祈りの答えも神さまがおられる聖なる山から与えられると祈っています。

 このような信仰継承が新約聖書の時代にまでなされ、イエスさまも祈るときは山へ行かれました。オリーブの山でお祈りをなさっておられる姿をたびたび見ることができますし、人々にお話をなさる際にもイエスさまは高い山に行かれます。
 マタイによる福音書5章~7章は、イエスさまが山の上で教えられた、有名な「山上の説教」または「山上の教訓」と言われるものです。イエスさまは、大勢の人々を山の上に導いて教えられ、8章1節では、教えておられた山を降りられたと記しています。

 また、これは来週の主日に聞く箇所でもありますが、イエスさまが洗礼を受けてから荒れ野へ行かれ、そこで四十日間断食の祈りをしておられる際に、悪魔がその断食を邪魔して現れます。来週読まれるマルコによる福音書にはありませんが、平行箇所のマタイによる福音書には、悪魔が現れて、三つのことを誘惑します。その中の一つが最後の誘惑ですが、イエスさまを高い山に連れて行って、世の栄えを見せながら、もしひれ伏して私を拝むならこのすべての栄を与えようと言って誘惑をします。
 このように、山の上は、神さまとの出会いの場でもあれば、神さまの言葉が説かれる場でもあり、祈りが聞かれる場でもあるということが分かります。神の素晴らしい栄光が輝く場であるということです。

 さて、本日、イエスさまは三人の弟子たちを連れて高い山に登られました。山に登られたのは目的がありました。そこで、これからご自分の身に起きることを知るためであります。そこで、イエスさまの姿が変わり、エリヤがモーセと共に現れてイエスさまと語り合います。エリヤが現れたというのは、エリヤは預言者たちを代表する人物ですから、旧約聖書の預言を意味しますし、モーセは律法の権威者でありますから、律法を意味します。イエスさまは預言と律法からこれから起きることを聞いておられる、という風に考えられると思います。

 それを知らない弟子たちは、展開される場面に恐れを感じつつも、まったく違うことを胸に抱き始めます。死んだはずのエリヤとモーセが現れたのですから、そこはすばらしい場所、神の力が働いている所と思ったのでしょう。ペトロが、語り合っておられる三人の間に口を挟み、提案をしました。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」(5節)と。

 誰だってこのペトロのような行動をとったと思います。イスラエルでもっとも偉大と言われるエリヤとモーセが現れ、イエスさまがご一緒に話し合っていますから、その場面を何とかして生かしたい。より良い宣教の材料として遣いたいと思うわけであります。
 私だった、もっとそれ以上のことを考えていたかもしれません。そこに素晴らしい教会を建てて、インターネットを通してこの事実を広めれば、そこはすぐ有名な場所になって、観光客が大勢訪れる。祈るためにも、世界各地から訪れるかもしれないと思うわけであります。

 しかし、その弟子たちを連れて、イエスさまは山を降りられます。いいえ、山の上で、「これはわたしの愛する子。これに聞け」と語りかけてくる声が、必要以上に執着している弟子たちを山から降ろして行くのでした。「これ」とは、イエスさまのことです。「これに聞け」とは、イエスに聞くということであります。イエスに聞くということは、山の下にあるイエスの生き方の中で自分を見出して生きるということであります。

 彼らは山を降りて行きます。山を降りれば、彼らはイエスさまの歩まれる十字架の道に従うしかありません。病気で苦しんでいる人や、一人では負いきれない重荷を抱えている人々や、職業柄のゆえに罪人扱いを受け、余儀なく差別を受けている人々のただ中へと入っていくイエスさまの道であります。律法学者やファリサイ派の人たちに訴えられながら、しかし、み旨を果たそうと歩まれる道です。

 栄光の山を後にして、このような道へ降ろされていく弟子たちの気持ちを、私たちは代弁できるのではないでしょうか。私たちは、何らかの形で、自分が今まで見て、悟って、感じて、最もそうだと思ったことやそのものを、神以上に居場所としている場合が多くありまましょう。神よりも、イエスよりも、自分がどれだけ悟ったのか、自分側の経験に基づいて神を捉え、イエスをも捉えようとしているのではないかと思うのです。

 先週は、韓国ルーテル教会の教職者会に招かれて、そこで久しぶりに教義学を学んできました。いろいろの視点からたくさんのことを学びましたが、その多くの流れから一つの答えが出てくるわけですが、それを一言で申しますと、「山を降りる」と言う、この一言につながることだと思いました。つまり、この世でどんなにたくさん学んだとして、知識が豊かで、いろいろのことを知っているとしても、それは神の知識に比べられたら、すずめの涙くらいでしかないということであります。

 それは、財産でも同じです。能力や名誉でも同じことです。ですから、私たちは、今知っていることや今持っているものなどに対して、意識して執着を捨てる必要があります。その執着を捨てない限り、たとえ山の下に暮らしているとはいえ、自分の心の中に築き上げている山を降りることはできません。山を降りないとするならば、そこにはイエスもいなく、もちろん、モーセもエリヤもいなく、ですから、み言葉の聞こえないところで、自分だけが小屋を建てて、過ぎ去った栄光の場面だけを何度も思い起こしながら、虚しく生きていることになります。

 今回、韓国ルーテル教会の教職者会で講演をなさった先生は、ルーテル大学で三十年間教え、その前の十年間は牧会をしておられた方でしたが、とても謙虚な方でした。ジョージ・ミュラーというドイツの神学者が書いた教義学の分厚い本を翻訳されて、その一冊を四日間をかけて全部学んだわけですが、しかし、どれだけ学んで、知識が豊かで会っても、決して学んだことを出さない。出すのはたった一つ、イエス・キリストの福音だけだという。

 まあ、牧師の中でもいろいろあって、ドイツやアメリカに留学をしてたくさん学んできたら、なぜか肩に力が入りすぎて硬いのです。それは、韓国だけでなく日本も世界どこでも同じことでしょう。またそれは、牧師だけではなく信徒も同じです。他の信徒よりもう少し神の言葉を学んだというだけで、なぜか鼻が高くなる!なぜなのでしょうか?山を降りていないから。自分の山の上で仮小屋を建てて、一人で、虚しく生きているのです。誰も相手にしたがらない、本当に虚しい人生と思います。

 私たちは、「これに聞け!」という神の声が聞こえてくるときに、直ちに自分をイエスの歩みの中に合わせて素早く動く者でありたいです。「これはわたしの愛する子、これに聞け!」この一声によって弟子たちは山を降りました。もちろん、しぶしぶ、イエスさまに連れられてです。しかも、降りた道が十字架の道だとは知らずに降りました。ですから、弟子たちの従う道には葛藤が多くあったことと思います。しかし、それでいいと思うのです。やがて虚しく終わって行く、過ぎ去った栄光をつかんで、仮小屋を建てて一人で暮らすような人生とは比べることもできない道が、十字架のイエスに続く道だと、私はそう思うのです。

 私たちが暮らすこの山の下には、命を脅かしてくる病もあります。人間関係はどうしてこんなにも難しいでしょうか。ときに、自分自身がファリサイ派のようになって、心が渇き果てて愛の言葉が出てこない苦しい時もある。しかし、そこには、イエスさまが共におられるところ。イエスさまが、他でもなく、私たちの生活の、人生のただ中に、私たちの間にともにおられるのです。イエスさまが共におられるここが、永遠へ繋がる道であり、復活の道であり、新しい命の道であるのです。

 私の山を降りましょう。降りるのです、イエスさまと一緒に。そしてイエスさまの歩まれる道をイエスさまに従って歩みましょう。

 祈ります
 私たちに「これに聞け!」と語りかけてくださり、本当の道を教えてくださる神さま。この一週間、一人で山の上にいるのをやめて、人々が泣いたり笑ったりしながら一緒に暮らすところで、みんなと一緒にいることのできる者でありますように。そして、そこでイエスさまの道を示して歩むものでありますように、私たちを導いてください。私たちの先を歩まれる主イエス・キリストのみ名によって祈ります。






聖書


マルコによる福音書9章2~9節
2 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、 3 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。 4 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。 5 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 6 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。 7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」 8 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。 9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。