もし、死んで墓碑が建てられるならば、私の墓碑には、「信仰を守り抜いた人」という言葉が書かれたら嬉しい!と思います。というのは、信仰を守り抜く自信がないからですが、人が信仰を守りぬくことがどれだけたいへんなことか、聖書の中の人物の一人の使徒パウロは私たちに教えてくれます。
コリントの信徒たちに宛てている手紙の中の、1コリ9章でパウロはこのように述べています。
「わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」(1コリ9:26~27)
立派な主の弟子としての働きを全うしているパウロでさえ、自分の信仰を守り抜く自信がないと、自分の体を打ち叩いて服従させるのだと、激しい表現を使って自分の弱さを告白している一節であります。しかし、パウロのこの一言は、彼の謙虚さを表していることに気づくのであります。そういう意味で、人の偉大さというのは、その人がどういう業績を残したのかにあるというよりは、その人が、神の前に、どれだけ謙虚な人だったのかにあると、私はそう思います。
パウロは多くの教会を開拓し、大勢の人を神さまのところに導きました。そして、今私たちには聖書に残された手紙を通して、彼がどれだけ偉大な弟子であったのかを現してくれています。しかし、彼が偉大なのは、彼が何をやって何を残したのかというより、多くの物を残すその過程の中の彼自身が、神の前に謙虚な人であったと言うこと。
パウロは、自分の弱さを良く知っている人でした。彼も人間ですから、この世のものに対して欲もあったはずですし、私たちが欲しているものを普通に欲しがっていたはずですから、それらの欲に対して闘う、その闘いに積極的に挑むと、彼は言っているのです。
このようなパウロの姿を通して見ても、私たちが信仰を持ち、それを維持する、そして最後まで守り抜くということは、自動的にできることではないということが良く分かります。時には自分を鞭打ちながら闘わなければならないときもある。時には、行きたくない道も歩き、悔しさを飲み込みながら孤独と闘うときだってある。
このような闘いのために祈りが勧められるのですが、その中でも、断食の祈りを勧めます。イエスさまも、本日の福音書で言われるように、断食の祈りについて自然に触れておられますし、それゆえ、断食の祈りは、キリスト教の歴史の中で積極的に勧められてきた祈りです。ただ、教会によって、この祈りを積極的に取り入れるか入れないかだけなのです。ですから、私たちの教会が断食で祈りを始めているということは、決して、特別なことを異例的にやっているのではなく、古い、キリスト教の習慣を取り戻しているだけのことです。一人ひとりが信仰の歩みの中で、特に忍耐が必要なことが生じたとき、または教会が危機の中に置かれたときに、信仰の先輩たちは断食の祈りを通して力をいただく中で、その時、その時を乗り越えていました。
ですから、私たちが断食の祈りに加わっていく際に気をつけたいことは、教会の行事の一環として決められているから、どこかに名前を入れなくては…という形式的な姿勢で加わることはやめたいです。大宮教会で断食の祈りを実施するのは今回が初めてだと思いますが、四十日間の表を作ったのは、きっとイメージがつかめないところもあるだろうと思ったから造ったものです。そして、途中でリレーの祈りが断たれないようにするために、名前を書いていただきました。表は、ただ把握するためのものでしかありません。ですから、自分の面目を立てるためにとか、役員だから仕方なく、というような理由で表に名前を書いておられるのでしたら、祈りに加わらなくてもいいと思います。
なぜなら、イエスさまの時代にもそのような思いで、外見的に断食を行っている人たちがいたからです。本日の福音書の箇所は、そう言う人たちが背景になっていて、そのような人に習ってはならないと、弟子たちを厳しく戒めておられるのです。
つまり、他の表現で申しますと、同じ信仰の道を歩みながら偽者になるのはやめよう、ということではないかと思います。
韓国に行って南大門市場を歩いていますと、有名ブランドの偽物を売っているショップがずらりと並んでいることに気づきます。ブランドを偽造して売ることは法律で禁じられていますが、その違いがはっきりしていれば大丈夫ですね。ですから、値段も安いです。ところが、店の中に連れられて入ってみると、そこには法律に引っかかる、本物とどこが違うのか分からないものが置いてあると。ですから、値段も高いです。でも、それは本物ではなく、偽物です。偽物は本物を表面的に飾っているだけのものですね。中身が違うわけですから、素人の目では区別ができないわけです。
人間関係も似たようなことがあります。日本には本音建前があるし、私たちは、建前の付き合い方に慣れていますし、付き合いやすいです。建前の関係は、とても合理的な付き合い方だと思います。
他の言葉では、「義理」の関係も建前の関係と似ていると言えるのではないでしょうか。建前、義理。ちなみに韓国にはこの言葉のどちらもありません。やはり国民性なのでしょうか。
先週、日韓宣教協力の一環で韓国を訪れた日程の中にバレンタインデーが挟んでいたので、議長のオム先生に義理チョコを買っていきました。そして、「これ義理チョコです」と言って渡したら、「義理とは何だ?」と反問され、結局意味の分からないチョコになってしまいました。
きっと、私たちは、神さまとの関係の中にも、こういう付き合い方で臨んでいるのではないかと思うのです。この世の合理的な付き合い方で、神さまとの関係に持ち込んでいる場合が、結構多くあるのではないでしょうか。楽だから。そして、他には、怖いところもあるかもしれません。パウロのように、内面すべて見られてひっくり返るような体験をしたら、人生すべて神さまに捕らえられてしまうかもしれないという恐れもあるから、義理の関係、または建前の関係でいいのかもしれません。または、内面的につながる人格的な関係作りということが分からないかという面もあるでしょう。どちらにしても、これらは、表面的にしか神さまと知り合っていないと言える関係です。
イエスさまの周りにいて、イエスさまに偽善者と言われる人たちは、神さまと平気でそういう関係作りをしていました。そして、彼らはそう言う自分たちのことを「敬虔な人」と自称していました。律法で定めていることはすべて守っていましたし、経済的に困っている人たちのためにも、律法で決められている援助法に基づき、ちゃんと献金をしていました。確かに、表面的には敬虔な人に見えます。ですから、彼ら自身は、自分たちのことを「敬虔な人」と信じ込んでいたのです。しかし、その内面では、隣人の必要に対してこれっぽっちも心を譲らない。
聖書の中で断食の祈りが進められる理由は、もちろん、自分の信仰を振り返り鍛錬するためでもありますが、隣人の必要に気づき、隣人の必要を満たす働きへ積極的に用いられるためであります。
昨日、さいたま市北区で、ですからこのすぐ近くのどこかだと思いますが、餓死だと思われる状態で、三人の家族が死んで数ヶ月も経ってから見つかった、というニュースを聞きました。まさか、経済大国のこの日本で、餓死を逃れない人がいる…これは、お金がないだけのことでしょうか。だれも、この私も、彼らの必要に対して無関心であった。そこの原因があるのではないでしょうか。もちろん、死の原因は異なってくるかもしれません。原因が違うとしても、死んで数ヶ月が経っても分からなかった隣人とは、どういう関係なのでしょうか。
神さまは私たちに表面的な関係づくりを求めておられません。内面からつながる関係を求めておられるのです。この世の合理的な関係は求められていないのです。一方的に神さまの方が損しながら、私たちの必要を満たそうと近づいてこられるのです。だから、心を開いて、負っている重荷を下ろして、何もかも委ねてくることを待っておられるのです。恥ずかしいとか、面目が立たないとか、優等生じゃないといけないとか、こんなの何もいらない。心から立ち返り、自分が隣人の必要に何一つ答えられない弱いものである、罪人であることを告白して、悔い改めて、ありのままを取り戻すことを求めておられるのです。
そう言う意味で、神さまと信頼関係を築くことは闘いと思うのです。他でもなく、自分との闘いです。自分と闘わない人は、神の前で心を開くことはできません。自分と闘わず、神さまといつまでも義理の関係作りしかできない人は、すべて、自分の身に起きることを人のせいにして、良くない責任を他者の責任にしていきます。
自分との闘い。そこからの勝利。それは、具体的に申し上げるならば、与えられている二十四時間の中で、どれだけの時間を祈るために割いているのか。その中の十分の一は神さまにささげる時間であることに気づいているかどうか。それにかかっているのかもしれません。
どんなに自分と闘っても、私たちは信仰を守り抜くことはできません。けれど、自分との闘いの中で私たちは、自分が、本当は弱く、最後まで耐え忍び、信仰を守り抜くことなどできない者であることを知ること。だから、神さまと信頼関係を築くことを通して、そう言う自分を委ねていくこと。もっと申し上げるならば、自分の弱さを通して働かれる神さまの一方的な関わり方においてのみ自分が信仰の道を歩むことができるということを知らされることであります。そして、私たちが、本当の意味で隣人とつながり、心からつながっていられるとするならば、それは、一方的に、私の必要を満たしながら私の中で暮らしておられる神さまの憐れみ深い愛の故でありましょう。本物になりなさいと、本物に近い偽物ではなく、たとえ欠けが多くても本物として生きなさいと、神さまは私たちに本物の愛を持って訪れてくださっています。そして、今年の四旬節も私たちを本物として導き、本物としての信仰の道をしっかり見出すことができるように導いてくださることでしょう。
今日から始まった断食の祈りや、四旬節のなされるみなさまの祈りが、神さまと内面的に、人格的につながる祈りとして導かれますように。