説教


四旬節第3主日
2012年3月11日
 
帰る場
 

 時々、仏教式のお葬式に出て思うことがありますが、亡くなられた方の行く先を表現するときに「旅立った」という表現をしていることに、キリスト教とは捉え方が反対なのだと思いました。

 キリスト教は、この世が旅路であって、亡くなってから行くところは「帰るところ」として捉えます。というのは、帰る前もそこから来て来たところへ帰るという、御許で始まって御許で終わるという捉え方であります。ですから、この世こそ旅路であり、この世は私たちがいつまでも留まるべきところではない、ということであります。その旅路に留まる期間はばらばらで、人によって長かったり、短かったり、いろいろです。長く生きたことが決して良く生きたことにもならなければ、短く生きたからと言ってそれがダメな人生ではない。どう生きるか、この人生の旅路であるこの世でいかに生きるか、それが限られた旅路での課題と言えば課題でありましょう。

 つまり、私たちは、旅先にいるわけですから、帰るところがはっきりしていなければとても不安になります。
 普段、短くても旅行に出かけたときのことを考えても、やはり変える家があるから安心して旅行を楽しむことができるわけです。ですから、帰る場というのは、その人の歩みを左右されるほど大事な場なのですね。どんなにボロボロな家であっても、私を待っていてくれる、帰る場がある、その一つだけで人は、旅先で迷子になったとしても、必ず帰るべき場へ帰っていくのです。

 イスラレルの民らが四十年間荒れ野をさ迷いました。
 四十年というのは、言葉ではすぐ言える数字だけれど、そこで一世代が終わって行くくらいの時間ですから、長い歳月であります。しかしそこで、エジプトを出るときに、エジプトでの食べ物の味付けや肉の美味しさを知っている世代の人たちは、荒れ野の生活が少し辛くなってくるとすぐモーセに不平不満をぶつけていきます。

 モーセがそういう人々の不満をすべて受けながら、約束の地、乳と蜜の流れるカナンに向けて四十年間歩み続けて、そのカナンの地へ入られたのは、結局、一世代が終わってのことでした。エジプトでの食べ物の味付けを知っているかまたは知っていないか、かすかに覚えている、その人たちがカナンの地へ入る、後の世代がカナンへ入っていきます。モーセ自身もカナンの地に入ることはできませんでした。

 それはともかく、エジプトを出たイスラレルの人たちが四十年間さ迷っていた荒れ野時代、そこはイスラレルの人々にとってさ迷っていた時期でした。エジプトのコシェンという地が自分たちに与えられた、ずっと住むべきところだと思っていたのです。しかし、そこは異国で、しかも奴隷として生きる場でした。イスラエルの民は、本来の帰るべき約束の地が神さまから与えられていたのです。そこへ行くためにエジプトを脱出するのです。そして、脱出して逃れ出たところが荒れ野でした。しかし、まさか、そこで四十年もさ迷うとは思っていなかったのです。ただ通るところだと思っていたのが、一世代が終わるほど長い旅となりました。そこで与えられたのが、本日第一日課として与えられた、出エジプト記二〇章に記されている十戒でした。

 一「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」
 二「あなたはいかなる像も造ってはならない」
 三「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」
 四「安息日を心に留め、これを聖別せよ」
 五「あなたの父母を敬え」
 六「殺してはならない」
 七「姦淫してはならない」
 八「盗んではならない」
 九「隣人に関して偽証してはならない」
 十「隣人の家を欲してはならない」

 この十戒が、荒れ野をさ迷う彼らにとって、わからなくなって迷うときの基準となり、指針となり、戒めとなりました。この言葉の中に神が内在している、共に神がおられる、彼らの精神的な帰る場となった。これが十戒であります。

 先ほど、ご一緒に互読しました詩篇19編の詩人は律法についてこのように証ししています。
 「主の律法は完全で、魂を生き返らせ/主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え/主の戒めは清らかで、目に光を与える。」(詩篇19:8~9)
 律法を愛する人たちは、律法の中に神さまが内在しておられると信じていました。
 私たちはイエスさまとパリサイ派とか律法学者たちが、いつも対立している事をよく聞きますから、律法はよくないと思う面があるかもしれません。そうではなく、律法の中には人々が生きるための、神さまが人々に語ろうとしていた言葉がその中に入っている。神さまは律法を通して神さまと出会っていた。ですから、この心に喜びが与えられる。目に光があたる、目が輝く、詩人はそう告白しているのです。
 ですから私たちもこの律法を大事にしていき、十戒だけではなく旧約聖書に出てくる律法を大事にする。律法を大事にしない限り福音はないのです。律法があって初めて福音がある、福音として生きる。福音だけになっていくとそれは、安っぽい福音になって、恵みが安価な恵みになっていくのです。律法があるから福音は福音となるのです。ですから、律法を大事にしていきたいです。

 さて、本日イエスさまは、神殿の境内の中で、店を開いて、羊や鳩を打っていたところを、直接作られた鞭で羊や牛を神殿から追い出し、両替のお金をまき散らして、「わたしの父の家を商売の家としてはならない」と言われました。普段はない、もの凄く怒っておられるイエスさまの姿を想像することができます。この姿を見た弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書かれている言葉を思い出したと言うのです。

 「神殿」とは神の家です。「教会」も同じです。神の家であって、人の家ではありません。しかし、そこが人の家化して行く。人の熱意によって。神殿をよりよく活用していくという、人の熱意によって神殿が、教会が神の家としての姿を失っていくという。月曜日から土曜日までは教会は開いているから、そこで商売をしていても別に教会がなくなるわけでもないし…という考え方は、この世の合理的な考えかたですね。とても危険な考え方です。神を排除したただの建物としてしか考えていないということなのです。イエスさまの怒りはここにありました。私たちも気をつけなければ、同じく羊や鳩は売っていないにしても、お金の両替は行っていないにしても、あれやこれやこなすために教会を遣っているならば同じことをしていることになります。教会のことに熱心である=信じることにはなりません。つまり、教会とは何かをする場所ではなく、神の言葉に与る場であるということなのです。私が、皆さんが、帰る場なのです。いつでも、どんなときでも、旅路で疲れた体と心を持って帰りたくなる場。そこがこの教会であって、ただ建物の教会というだけでなく、み言葉が宣べ伝えられる場であり、それがイエス・キリストの体なのだと。

 ですから私たちは考えてみたいです。自分がどのような思いで教会に来ているのかを。何かをするためにきているのか。奉仕の当番だから、これをやらなきゃいけないから!本当にそうであるならば、今日からは、神さまの礼拝に与る、神さまに帰りたいという気持ちで教会に来るように変わっていきたいです。教会は「行く」ところというより「帰る」ところという気持ちで来るところなのですね。なぜなら、私たちの人生の、または命の拠り所となるみ言葉が宣べ伝えられるところだからです。

 私は毎朝起き上がるまでラジオをつけて聞く習慣があります。ある日の朝、ラジオをつけたら、ある方が書かれた本が紹介されていました。地震と津波によって家族を失い故郷を追われた人の本ですが…その本を紹介新柄彼は、自分たちを被災地にいる被災者と呼ばない欲しいと言っていました。地震と津波に遭い大切なものを失い絶望の中にいた時に、日本全体で支援がなされ、また海外からも支援がきて本当に嬉しかった。力になりましたと。でもそれがずっと時間が経っても、同じく、それと共に「頑張って」という言葉が送られてくる。そこで、もうこれ以上なにを頑張ればいいの。十分頑張った。そして今度はその言葉に疲れていく。それで彼は被災地ではなく被災者でもなく、復興地、復興者と呼んで欲しいと。自分たちは生きたい、いつも被害者でいたくない。これから自分たちは起き上がっていく者だという意味で、復興者と呼んで欲しい。そしてその気持ちを言ってくれたのですね。そこで、彼は、あのとき、人々から「頑張って」と言われて、なんでイライラした気持ちになったのだろうと思い返していました。それは本当に自分たちの事を思って言ってくれている言葉だったのに、なぜ苛立つ思いだったのだろうと。最終的に思いついたのが「帰りたい」その気持ちだったのだと言うのですね。

 ちょうど、今日は、東日本大震災から一年を迎える日です。多くの人が家を失いました。帰る場を失ったのです。愛する家族を失い、友人や仲間、職場の仲間、村人を、隣人を失った。この人たち一人ひとりは、一緒に生きていてみんな繋がっていた関係、時にはその関係が帰る場であった。心いじけた時にはそれを聞いてくれる、そういう人たち、絆を失った。一生涯をかけて作り上げてきたすべてをが、一瞬のうちに失われ、今は、仮設住宅で住むことがゆるされていても、そこが帰る場にはならない。そう考えると、すべてを失っている人々の一年間の思いは、ずっと、どこへ訴えるところもないまま、その悲しみや虚しさを抱えたままの時間だったのではないかと思うのです。さ迷っていたときだったのではないだろうか。イスラエルの民が荒れ野をさ迷っていたときのように、ずっと帰る場を失った旅先にいたのです。そう思いながらも、力になれるまともなこと何ひとつできない自分がいやで、偽善者のように思えて仕方ありません。

 ですから、現場へ行って何かはできないけれど、亡くなられた方たちの声を代弁していく、祈りはできる、残されて辛い思いの中で厳しい生活を強いられている方々のことを、これからも忘れないようにして、何らかの力になっていく、そのための道を探っていく。そうすることを通して、私たちは東北の方たちと繋がることができる。福島で原発のために不安の中におられる方々や故郷を離れて帰りたくても帰れない、帰る場を失っている方々と繋がり、何より、自分たちがそうすることを通して帰る場を大事にして行くことができるのだと思うのです。 この教会がただの建物ではなく、神さまが内在しておられる。み言葉を通して内在しておられ、神さまの言葉が宣べ伝え、神さまの言葉が生かされるところ。疲れた人、病んでいる人、不安の中にいる一人ひとりが来て励まされ、癒され、力づけられ、再び、再生されて出て行くところとなっていくのです。

 今日も神さまは帰ってきた私たちを出迎えてくださっています。この世の旅路で、良くがんばったね、良くやったねと、両手を広げて私たち一人ひとりを抱きしめて、励ましておられます。この方は、私たちがここからこの世へ、再び使わされるときにも、また私たちと一緒に出かけてくださる方です。だから人生の旅路が怖くない、不安でもない、この方が共に居てくださるから。復興の地におられる方々ともこの方が共に居てくださることを、私たちは信じています。






聖書


ヨハネによる福音書2章13~22節
13 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。 14 そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。 15 イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、 16 鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」 17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。 18 ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。 19 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」 20 それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。 21 イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。 22 イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。