説教


四旬節第4主日
2012年3月18日
 
御もとに身を寄せる人
 

 宣教六十周年の準備をしていると、教会の信仰の歩みがどのようなものであったのか、良く見えるようになります。もちろん、教会は人ではないから「歩み」という言葉はふさわしくないのかもしれません。しかし、教会は人ではないけれど生きているものであります。生きているものでありますし、ですから、当然成長する姿も見えます。そして、教会によって性格があってそれぞれ異なります。人間と同じです。

 六十年間の歩みの中で、人間と同じように、成長期があれば反抗期もあり、病んでいたときもありました。神さまのみ旨から離れていた時期も、確かにありました。そういういろいろの時期を経て、今年、六十歳という還暦を迎えるようになったのです。おめでたいことでありますし、私たちは今その準備をしているわけでありますが、ここで大事なことを問うっていかなければならない。人間と同じなら、教会も死ぬのか!ということです。

 皆さんはどう思いますか。神さまの教会だから永遠に生きるものでしょうか。教会の存在価値は、宣教する姿にあるといわれます。ですから、教会が宣教をしなくなったときに、教会も死にます。
 宣教六十周年を迎えているこの時点で、私たちは、この教会の姿を確かめて、確信を持って新たな歩みを始めるようにしたい。教会は生きている限り、限りなくヴィジョンが与えられます。与えられるヴィジョンに生きる限り、教会は永遠に死にません。

 さて、本日の福音書の日課はヨハネによる福音書3章13節から21節ですが、1節から読んだ方がいいと思います。夜中に、議員の一人であるニコデモがイエスさまを訪れてきて、質問をするところから始まった話が続いています。後半は、ほとんどイエスさまがお話をしておられますが、話の中心テーマは「生まれ変わる」と言えるでしょう。

 イエスさまは、尋ねてきたニコデモにこのように言われました。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)と。するとニコデモは、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(4節)と答えます。当然な答えだと思います。私たちも、「新たに生まれる」ということが、いったいどういうことなのか、ニコデモのようには聞かないかもしれないけれど、明確な答えを出すことができるかどうか。しかしこのことは、キリスト教において、いいえ、イエス・キリストを主と告白するに人には欠かせないことであって、とても大事なことであります。今日は、このことを中心においてお話を聞きたいと思います。

 さて、ニコデモの祖先であります人たちの姿が、本日の第一日課の旧約聖書に描かれています。
 奴隷の国エジプトで苦しみを訴えたら、神さまはモーセを遣わせて彼らを約束の地カナンに向かって行くように、導き出してくださいました。そして、今そのカナンへ向かっている途中であり、荒れ野での生活のただ中にあります。この荒れ野でも、彼らはとても多くのことを通して、神さまの奇跡を経験しました。そして、荒れ野での40年というけれど、持っている物ほとんど何もない中で、神の恵みの中で過ごしています。イスラエルの民らはその神さまの奇跡によって、恵みによって自分たちが生かされた一つひとつを、ちゃんと両目で見て、体で感じて、頭の中にしっかりと記憶しています。

 しかし、本日の日課を読む限り、一度も神さまの奇跡やその恵みに与ったことがなかった人のように不平不満を言っています。もう歩く気力がなくなってきたからでしょうか。「パンも水もなく、こんな粗末な食べ物では気力もうせてしまいます」とモーセに向かって、そして神さまに向かって呟いていた。きっと彼らの不平不満から想像できるのは、働いた分だけの報酬がもらえていない。働いたと言うのは、荒れ野をさ迷って長く歩いたことかもしれません。ほかの他の民族と命をかけて戦ったことなのかもしれない。一所懸命にやった。自分たちが生きるためにやったことであっても、しかし、それに合った報酬がない、十分食べられていなければ飲む水も十分ではないと…

 彼らの心の中には、自分たちが荒れ野をさ迷うようになったその理由を、モーセと神さまの所為にしていました。「なぜ、我々をエジプトから導きあがったのですか」と。今日の日課にもそのことが書いてあります。自分たちの一方的な立場だけしか主張できないとても弱い人の姿であります。

 神さまは、そのような彼らに炎で作られた蛇を送ります。蛇にかまれて死者も出ました。すると、今度は慌てて、「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください」(7節)とモーセに頼みます。モーセは祈り、神さまは、青銅で蛇を作って旗竿に掲げ、それを見上げる人は蛇にかまれても死を免れるようにしてくださいました。

 炎に燃える蛇と青銅で作られた蛇とはまったく違います。炎の蛇はリアリティがあります。人を死に追いやるほど力があります。しかし、青銅で作られた蛇は何の動きもなく、ただの彫刻のようなものです。けれど、神さまはそれを見上げろ!と、それを見上げれば死なないと言うのでした。そして、み言葉に従って見上げた人は死を免れました。これがみ言葉、神さまの話された言葉の力であります。青銅の蛇そのものの中に力があるのではないのです。み言葉に従うという人の歩みから死が取り除かれていくと。

 しかし、中には、まさかあんな青銅のみっともないものに、死なせない力があるわけがないと、あれこれと考えてかまれたところを自分で何とかしようと、み言葉を軽んじて離れていく人もいたことでしょう。神さまから離れて、死を招く歩みをわざわざ選び取っていく人の弱い姿です。

 十字架を見上げるというのは、まさにこのことであります。見上げるためには、見上げなさいと言われたみ言葉に従う過程があります。しかし、どうでしょうか。私が考えた形で十字架を捉え、自分が思い描いた考え方で十字架の下ではなく遠くから十字架を描いてみたり、この世の価値観の中で捉えてみたり、自己感覚の中で十字架を描いているそういう面が強くないでしょうか。

 十字架は、当時のローマの死刑に用いられたものです。イエスさまはこのローマの死刑制度に従って十字架の上で殺されていくわけですが、私たちが十字架として仰ぐのは、その木の十字架、その中になにかがあってそれを仰ぐのではなく、十字架の上で死なれたイエスさまのことを仰ぐのです。十字架の上でのイエスさまの死は、人々の罪を担った死である。この私の罪を担って代わりに苦しみを受けて死なれたという、このみ言葉を信じる人だけが十字架のもとに来ることができ、十字架を仰ぐのであります。「新しく生まれる」ということは、このことであります。私のために、私の代わりに死んでくださったことを信じられる。キリストが、このちっぽけな私の罪を背負って十字架の死を成し遂げてくださったために、それゆえに、私は生きるものとされた。永遠に生きるものとされた。にもかかわらず不平不満ばかり言って生きる自分がいる。

 先ほど、交読しました詩篇34編の詩人は、この十字架のイエスを見上げることの意味を知る人でありました。もちろん、昔は、イエスさまはおられません。けれど、あの荒れ野の時代に、青銅で作られた蛇が旗竿に掲げてあげられ、それを見上げる人は命を得て、神さまの救いの業に与ったように、この詩人も、自分の人生を通して神さまの救いの業に与る体験をした人でした。つまり、悔い改めるという「新しく生まれ変わる」体験をした人です。

 その始めに詩人はこう言います。
 「2 どのようなときも、わたしは主をたたえ/わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。3 わたしの魂は主を賛美する。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。4 わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう。」

 木曜日の祈祷会のときにもこの詩篇からみ言葉を聞きましたが、木曜日の祈祷会はいつも、次の週の礼拝の中で読まれる詩編を通して学んでいます。ですから、今日、聞いているこのみ言葉の先取りとして学んで、また祈っておりますから、とても分かりやすくなる、詩編を学んでから説教を通してみ言葉を聞くと分かりやすくなると思います。神の救いに与っている人の生とは、どのようなときにも神を讃美するために与えられている詩人はそれを言っています。どのようなときにも、たとえ、荒れ野の中にいるときも、荒れ野の中で自分の弱さのゆえに炎の蛇にかまれて死に直面しているそのときにも、主を讃美する。つまり、神さまの言葉を畏れ、従う。青銅の蛇を仰ぎ見よ!と言われたならば、全面的に従う、ばかばかしく思えても、ただ神を畏れ敬うがゆえにみ言葉に従って命の道を歩むのです。

 詩人は、その最後の9節でこのように言います。
 「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。」
 「味わい、見よ、主の恵み深さを」
 どうやって主の恵み深さを味わったり、目で見たりすることができるでしょうか。時々感じることは時にはある。しかし、荒れ野にいるイスラエルの民は、神さまの奇跡を、神さまの恵みを目で見て、口で食べ、飲み、耳で聞き、感覚で感じる中で歩みました。まさに、この詩人は、まるで荒れ野の中の祖先の中にいたかのように、自分に与えられている五感を通して神さまの恵み深さを味わっています。

 「いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は」と言う。つまり、イエス・キリストの十字架のもとに帰ってくる人は、この五感、神さまから与えられたこの感覚を通して、神さまの恵みを食べたり飲んだり、聞いたり見たりしてあじわうことができる。それが十字架のもとなのだと。

 人は、ニコデモのように、たくさんのことを学べばまなぶほど「新しく生まれる」ことの意味が分からなくなります。自分の力で考えるからです。学識がある、知識がある、あと世の中の常識がある。その中ではキリストの十字架の意味、新しく生まれると言うことは捉えられません。感覚的にあじわうことはできません。しかし、たくさん学んでも、だからこそばかばかしく思えても、語られた言葉に従っていくそこに十字架の主イエス・キリストは伴っておられる、それが分かる。ニコデモは、この後、変わって行きます。彼についてこのヨハネは何度も書くのですが、彼はイエス・キリストの十字架の死に与る中で、新しく生まれ変わっていった。イエス・キリストの十字架で死なれたご遺体をおろして葬っていく働きに加わっていくのです。

 私たちの教会のこれからの宣教の歩みも、この十字架の主イエス・キリストの十字架の下で行われる、「新たに生まれ変わった」歩みでありますように、そう言う歩みへと導かれますように。一回新たに生まれ変わればそれで終わりではない、ずっと働き、なって、新しくなっていく、そう言う姿を取り戻していきたい。そして、この教会の宣教に与る私たち一人一人の人生の歩みも生活も、新しく変わっていく、光の中にあってまさに輝く者としてその道が恥ずかしくない、誇れる、全てを照らされても誇れると言うキリスト者の道として導かれますようにお祈りいたします。






聖書


ヨハネによる福音書3章13~21節
13 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。 14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。 16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。 19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。 20 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。 21 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」