説教


四旬節第5主日
2012年3月25日
 
悔いる
 

 子どもを育てながら、遅いけれど親の心を少しは分かったようなこの頃です。あのとき、親の言うことを聞いておけばよかったと思うことが、大人になってから何度もありました。そして今、昔の自分と同じ姿をしている子どもの姿が、とても残念でなりません。

 人は、どうしてそんなにも聞くべきことに心を傾けないのでしょうか。昔、神さまに作られた人類初カップルのアダムとエヴァもそうでした。園の中で、すべてのことに対しては自由であったけれど、一つだけ、園の中央に植えてある善悪を知る木の実だけは取って食べてはならないと言われたのです。しかし、彼らは、そのたった一つの戒めを守ることができませんでした。

 それから何十世紀も経ったイエスさまの時代にも、人は、聞くべきことに心を傾けません。自分勝手な聞き方をして、神さまの言葉が示す道よりも、自分が行きたいところへ方向を固めます。ヨハネ共同体は、イエスさまの時代のずっと以前の預言者イザヤの時代にも人々は預言者の語ることを聞かなかったと、本日の福音書の日課を通して知らせています。
 信仰は聞くことから始まると言われます。聞かないのに信じることはできないからです。しかし、信仰を深くしていただきたいと願い祈りながら、聞いたみ言葉に生きることから離れていく。つまりみ言葉に聞かないと言う不思議な人の歩みだと私は思います。

 イエスさまは、マタイによる福音書17章20節で「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる」と言って、悪霊を追い出せなかった弟子たちに向かって厳しく叱責しておられます。弟子たちは、信仰が薄い、からし種ほどの信仰さえなかったために人から悪霊を追い出すことができませんでした。

 そうしたら、み言葉を聞いて「信じる」ということは、病気を癒したり、立派な働きを上手にこなせたりするような、何かができることを意味するのでしょうか。超人的な力が現れることが神を信じるということになるというのでしょうか。

 本日の福音書の日課の42~43節では、「議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである」と述べています。

 当時、ヨハネ共同体の中には、ユダヤ教からキリスト教へ改心している議員たちが大勢いました。しかし、なかなか公に言い表すことができず、言い表せない人はその人なりに悩んでいたと思いますが、ヨハネ共同体はそれに対して厳しく批判しています。この42~43節はその流れの叱責です。
 先週、説教の中でお話しましたニコデモという人も、ヨハネ福音書にしか出てこないことから、議員でありながらヨハネ共同体の中の一人だったと考えられる人です。彼も他の議員と同じく、イエスを主と信じることを公に言い表せない一人でした。ですから、彼は、誰にも見つからないように、夜遅くイエスを訪ねてきたりしたのです。

 ヨハネ共同体は、ニコデモを含めて、公に信仰を表せない議員たちのことを、「神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである」と指摘します。会堂から追放されることを恐れて、そして、ファリサイ派の人たちをはばかって、言い表せなかった。つまり、自分の居場所を確保するために、人に遠慮するような信仰を持つ人と指摘しているのです。ですから、同時にこの姿は、今、自分の目の前にいる人のために、目に見えない神さまのことを侮っている、軽んじている姿であると、そう捉えているのでしょう。

 もちろん、議員たちがイエスを主として信じつつ人の目を気にしていた、人に遠慮していたのは、自分の信仰を守りたがったからでしょう。しかし、このことは、逆に信仰を捨てるような行為でもあると言えないでしょか。信仰と言うのは信じると言うことを信仰と言う。それは自分が守るから守られるものでもなければ、自分が得るといって得られるようなものでもありません。弟子たちがそうであったように、人がもっていると思うような信仰とは、本当はからし種一粒ほどもないのです。ですから信仰とは、自分が持つか持たないかのその次元を超えるものであります。ですから、自分の信仰を守るために公に言いあらわさないとするならば、それは、自分の権利ばかりを主張する人の姿にほかなりません。つまり、自分の知識や考え方、自分の力の中で信仰を計算して、維持して保とうとする、人間中心主義的な信仰の持ち方であります。ヨハネ共同体はそれを指摘していると思うのです。

 ルカによる福音書15章には、あの有名な放蕩息子の物語があります。彼は、自己権利を主張する人でした。自分の分け前である財産は、ユダヤ教の法律では、お父さんが死ぬ前には相続することはできないものでした。しかし、彼は、その法律を破りながら、そしてお父さんやお兄さんとの関係をも破りながら、自分の分の財産をすべてもらって旅に出ます。外国へ行って、あるだけのお金を使って、やるだけのことをしました。ついにお金もなくなり、人の家の豚の世話をすることでやっと命をつないでいたある日、彼は、豚が食べているいなごまめさえ美味しく思いました。お腹が空き、心も体もボロボロになってやっと、そこで、彼は、我に返るのです。やっと「罪人」という自分の姿が見えたのでした。生まれて初めての体験なのかもしれません。果たすべき義務は果たさず権利ばかりを主張して、お父さんとお兄さんと、周りの人間関係を切り捨てながら傷つけてきた自分自身の罪深い姿が、やっと自分の目で見えたのです。

 これを、悔い改める姿と言います。人が神を見出す時です。自分自身見出す時です。その時まで当たり前だったのが、実は、すべてが神さまの恵みによって与えられていたものだったと。命も、家族も、財産も、隣人関係も与えられていたものだと悟るところ。打ち砕かれて悔いるところ。この体験がなければ、人は、決して、自分自身の中で、本当の意味で神を見出すことはできません。

 祈りは、このためのものでもあります。悔い改めるところへ導かれるために祈るのです。何かを与えられるために祈るのではありません。こうしてください、ああしてください。これは本当の祈りではないかもしれません。 イエスさまは、主の祈りを弟子たちに教える際に、あなた方に何が必要なのか、天の父はすでに知っておられる、だからまず神の国と神の義を求めなさいと言われました。それから、このように祈りなさいと、主の祈りを教えてくださったのです。

 祈ると言うことは、必要なあれやこれやをください、あの人のこの人の置かれた状況を改善してくださいと言うようなことをお願いする。それが祈りではありません。そうではなく、祈ると言うことは、神さまとの霊的な対話であります。つまりそれは、自分自身の中にそして外にくっついていて、外したくても外せないこの世に対する欲や誉れ、執着、恐れを取り除かれていくことを通して、神さまの言葉に生きる、神さまの言葉に自分を委ねられるそう言う力が与えられるところ。それが祈りの場であります。

 特に、今、私たちは断食を持って祈っていますが、断食の祈りは、この世に対する自分の執着や、物質万能主義にたっぷりと浸かっている自分が、そこから抜け出て、神の貴い恵みに生きる者へと変えられるために捧げる祈りです。この作業を祈りの中でしていかない限り、私たちは、神さまのことも、頭の中でしか捉えられないし、信じるといっても頭の中でだけ信じるような信仰に過ぎない。それこそ、神からの誉れよりも人からの誉れを好む信仰者になっていきます。

 先ほど、ご一緒に拝読しました詩篇91編19節で詩人は、「打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません」と祈ります。
 この詩人にとって大事なことは、自分の信仰が虚しくなってしまわないことでした。つまり、信じていますと言いながら、実は頭の中の信仰だったら、神さまに侮られてしまうかもしれないと、彼は神さまを恐れていたのです。人が何を言いようと、神さまに受け入れられる信仰を彼は求めて祈っているのです。

 それは、自分の権利ばかり主張して、放蕩な限りを尽くした放蕩息子が、豚小屋の前で、「お父さんの家へ帰ろう!」と、われに返って涙を流していた、その状態、打ち砕かれ悔いる状態であります。そして、そこが放蕩息子にとって、そして詩人にとっての救いの喜びを見出した場でありましたし、真の光の差し出す場であります。

 イエスさまは、「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」(46節)と言っておられます。
 暗闇とは、電気もなく、光もなく、暗いところを言います。そしてまた暗闇とは、人がこの世のものに執着しすぎて、自分が居るべきところにいないでさ迷っている状態も暗闇に状態と言います。または、人を恐れて平気で見えない神を侮ることを通して偶像崇拝をする時のことも暗闇の中にいる状態と言います。つまり、自己権利を主張するがために、自分で、自分の知識や自分の力で計算した信仰形態を維持しているその状態を、暗闇の中にいる状態と言うのです。

 私たちは、そこから抜け出たい。この四旬節に、断食の祈りを通して、打ち砕かれた悔いる心を持って祈る、そこで、救われたという喜びに与りたいのです。そこには、真の光があります。
 放蕩息子は、われに返って、打ち砕かれた心でこのように言います。お父さんのところへ返ろう。お父さんの家の僕の一人にしてくださいと、帰ったらお父さんにそう言うふうにお願いしよう、と。そうして受け入れてもらえられるならば、それだけでも自分は救われたのだと、感謝なのだと。

 信じるということは、感謝することと直接繋がることなのかもしれません。救われた、打ち砕かれた心に差し出してくださる真の光に預かった事のある人だけが、心から感謝する生き方をします。

 「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」と言ってくださるイエスさまは、私の言うことを信じなくても、それだから信仰が薄くても私はその人を裁かない。私はその人を救うために来たと言ってくださいます。私たちは確かに救われています。けれど救われているが故に、私たちに差し出されているその真の光、その喜びをあらわにして生きる者でありたい。そしてその真の光を、まだ光に照らされたことのない人に分かち合うために遣わされていきたい、です。お祈りいたします。






聖書


ヨハネによる福音書12章36b~50節
イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。 37 このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。 38 預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」 39 彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。 40 「神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、/心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」 41 イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。 42 とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。 43 彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。 44 イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。 45 わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。 46 わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。 47 わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。 48 わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。 49 なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。 50 父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」