もう暖かい春の風が吹き始めました。春の風は人をわくわく、うきうきさせます。花粉症に悩んでいる私のようなものには、それほど嬉しい風ではありませんが、それでも春の風は心をときめかす力があります。
昨日は強風が嵐となり、たいへんな一日でしたが、冬の冷たい風を追い払うためには、それくらいの勢いでやってこなければならないのだろうと思いました。出かける用事のある方はたいへんだったと思います。
この春は新しい人に出会う時と同じような気持ちにさせるものだと思います。新しい人との出会いも心をわくわくさせます。一体どんな人なのだろう?特にこの頃は、きっと歳を取っているせいだと思いますが、初めて人と会うことになりますと好奇心があります。この人は、どんな人生設計をしておられる方なのだろう?どんな人生を生きて来られたのだろう?何が好きで、何が嫌いなのだろう?…たくさん知りたいことが湧いてくるのです。
まあ、段々と慣れてくると嫌なところも見えたりして、わくわく、うきうきは消えていきますが、けれど、新しい出会いは楽しいものです。
先ほど、ご一緒に交読しました詩篇92編の詩人は神さまとの関係がとても深い関係で結ばれていることを私たちに知らせています。詩人が何時神さまに出会ったのかはわかりませんし、ですから神さまを信じてどれほどの時間が経っているのかも分かりません。けれど、彼の人生の歩みの深いところで神を讃美している。心の深いところで神さまと交わっていることが伝わってきます。
その2節ですが、先ほど交読しましたところの初めの方、「いかに楽しいことでしょう 主に感謝をささげることは」となっている、そこの「感謝」という言葉は、「告白」と言い換えることのできる言葉です。すると、「いかに楽しいことでしょう 主に告白をささげることは」という文書になります。
このように、他の訳も参考にしながらこの詩人が置かれている状況を想像してみるとき、彼は今とても嬉しい状況に置かれていることがわかります。神さまに朝と夜と祈りを捧げることが告白することが本当に楽しいことですと告白していますし、その楽しさを隠せない様子が聞き手である私たちに十分に伝わってきます。一体彼は何を神さまからいただいたからこれだけ楽しく、喜んでいるのでしょうか。
そのように考えて、その後に続く文を読んでみても、彼を喜ばせた具体的な出来事は書いてありません。ただ、主のみ業を喜んでいるそれだけは分かります。彼が主に告白し、感謝し、讃美する、朝も夜も主の慈しみとまことを宣べ伝えることは楽しいと告白させるほどの主のみ業というのは一体何なのでしょうか。彼を根底からそこまで揺さぶる、考えられることは一つ。彼は、救われる体験をした、彼の人生のある時点で、介入してこられた神さまに出会い、死から、悪から救われる体験を確かにした、それ一つ、私たちが考えることはそれ一つであります。
彼の喜び、そして主の慈しみとまことを伝えることを朝も夜も楽しく行っているこの姿は、一皮剥けた人の姿であります。詩人は、自分が経験した主の業、救いの業、それ一つに彼の全存在を挙げて喜び、そして人にそれを伝えているのです。神さまの前で、要らない服を脱ぎ捨てて、本音で神さまと向かい合って告白できる仲。心の破れを経験した人にしかない姿であります。
私たちは、確かに救われています。しかし私たちは、救われていることに対して、この詩人のように心の底から湧き上がる喜びを現しているのでしょうか。そして、その喜びを人に伝えているでしょうか。いい人が心の破れを経験した人でなければ、優しい人が要らない服を脱ぎ捨てられるような、全存在を挙げて信仰の道を伝える人ではないと言うことを、私たちはこの詩人の姿からみるのです。
本日は枝の主日、受難主日として守る教会もあれば、私たちの教会のように毎年このように枝をお用いて、枝の主日として守っています。イエスさまがエルサレム城へ入城される際に、人々が木の枝を切ってきて道に敷いたことから今日を枝の主日と名づけています。毎年やっているので、大体知っている方は知っていると思いますが、今日この枝は、皆さんお持ちになってください。そして今この青い枝、これが段々色が失せていくことを通して自分の信仰と言うものが、こんなに青があってもすぐ、色んな家庭の事情や環境によって色が薄くなっていくものなんだと言うふうに、視覚的な教育的な信仰の材料なのです。飾ってまた来年の灰の水曜日の前の主日にお持ちになって下さればと思います。しかしこの枝に関しては四つの福音書が全部伝えているのです。だけれどヨハネ福音書だけが伝えていないことがあります。それは、今日私たちが聞いていますマルコにはあるものなのですが、人たちが自分の服を道に敷いたことに関しては、ヨハネ福音書は伝えていない。
昔から、王様のような人が通られる道に枝を敷く習慣がありましたが、枝を敷くということは、王様を尊敬します、と言う敬意の表しであります。ところが、枝ではなく服を敷くという行為には、敬意を表すことにもう一つプラスして、自分の全存在をささげます、という決意が含まれているのです。
イエスさまの時代は、服という言葉で現すほど、きちんと布で作られたものを庶民たちが着ることは難しいことでした。ですから、当時の人たちにとって服、特に上着を着ているとしたら、その上着はその人の財産のように大事なものになります。また上着は、その人なりの、この世的なプライドを現すものでもありました。それを人の通る道に敷くということは、とても大きな変化が心の中で起きていることを意味します。つまり、その服の上を歩まれる方に自分の全存在を委ねる決意を現していますから、人生はもちろん、家族のことも、何もかもお委ねしますという意思表示と取れる行為です。
このように人々が、この行為が心の外へ出るまでかけた時間はとても長かったと思います。本日エルサレム城へ入城されるイエスさまを歓迎している人々、枝を敷いたり服を敷いたりしているこの人たちは、ガリラヤからずっと従ってきた人たちであります。やっとエルサレムへ着いた。エルサレム城へ入られるという喜びを表しているのですね。そのエルサレムに行った人が見て、いきなりやっているのではない。エルサレムへ入ると言う感がありました。ですから、マルコによる福音書だけで考えるならば、この人たちは、数年間イエスさまと一緒に過ごした人たちです。過ごしているうちに、イエスさまの凄さに惚れた時もある。病んでいる人を癒すときや神さまの言葉の解き明かしの素晴らしさや貧しく虐げられている人たちへの心からの配慮などを見て、尊敬していたと思います。そして、とても力のある人とも思ったことでしょう。
そう言うことを見ていたから、彼らはイエスさまに信頼をおくようになった。自分を委ねても良い方であると。彼らは、きっと、人間的に頼もしい人だと、従う価値があるという思いを抱いていた。それこそ、建前の関係を超えて、緊張を解けて、一皮剥けた関係となっていたのかもしれません。その彼らの思いがイエスさまの道を準備して行きます。イエスさまが通るべき十字架の道に、枝を敷く、服を敷くという形で、イエスさまこそ王であるということを表すために用いられています。
しかし、用いられている彼ら、人々の思いの中では、あくまでも自分たちの都合のいいようにしか、イエスさまを捉えていませんでした。エルサレム城へ入れたイエスさまは、本当に当時の腐敗したその政治を立て直す人、ユダヤの王となり、虐げられている自分たちを権力から守ってくださる方であると。十分そう言う力があると、そう思っていたのです。しかし、イエスさまがローマの総督とユダヤ人の大祭司たちに尋問を受けるようになり、十字架刑が確定されていくと、人々は、大祭司の賄賂をもらってイエスを裏切る側に回ります。十字架に付けろ!と叫ぶ側に回るのです。自分たちの期待が外れたことに対する現しなのかもしれません。
イエスさまが偉くなれば、長い間従ってきて、親しい関係にあった自分たちもイエスさまの力の下で何らかの幸せを手に入れることができるはずだった。イエスを通して自分たちなりの夢を見ていた。
けれども、その人たちがイエスさまの十字架の道に用いられています。ですから、これだけで道を備えるだけであったならば、それは、今の私たちにとっても大きな教訓を与えてくれる、信仰者の姿でありましょう。しかし、とても人間的なやり方で、この世的な付き合い方でイエスさまとの関係を築いていた。イエスさまを通してこの世での栄を描いていたということであります。
悲しいことに、私たちの中にこの姿がないでしょうか。献身的に教会の働きに遣わされつつ、どこかで、この世で幸せになれることを願っている、神さまに祈るとしたら家族の健康や自分の健康が守られたい、この世での成功の秘訣がイエスの教えの中にこそあるだという思いが、従うことに一所懸命その思いが一生懸命にさせたり、献身的に仕えていきるようにさせていたりはしないでしょうか。
先週もお話しましたが、私たちの健康や日用の糧、家族の安全などは、私たちが求める前からすでに神さまがご存知であると、イエスさまは主の祈りを教えられる前にそう教えてくださいました。私たちが一つひとつ言葉に出して祈らなくても、心の底で心配していなくも、すでに知っておられる。それ以上のものを持って満たしてくださる方が、私たちに求めておられるのは、神の国と神の義をまず求めなさい。私たちにはそれが求められている。
詩篇92編の詩人は、それを知っている人であります。彼の祈りの中に、どこにも家内安全、商売繁盛的な祈りをしているところはありません。彼は、自分の人生の道のりで大いなる主のみ業を経験しているからこそ、朝も夜も、神さまの慈しみと真を述べ伝えずにはいられない、神さまの慈しみと真を述べ伝えることがとても楽しいことだと言っている。本当の意味で要らない服を脱ぎ捨て、一皮、二皮まで剥けた人の祈りであり、讃美であります。
私たちは、四旬節の間、断食の祈りを持ってこの作業を続けてきました。後一週間残っておりますけれども、要らない服を脱ぎ捨てる作業です。心の破れを経験する作業です。この作業を経ていかなければ、教会のために祈ることも隣人のためのとりなしの祈りもすることも、結局は建前の祈りでしかなくる。
心の破れを経験する中で、イエスさまの歩まれる十字架の道が、実はこの私を救う道であったのだと、十字架の上で受けられる苦しみは私の苦しみを変わりに受けておられるのだと、知らされていく。救われて神さまの大いなる業に与っているがゆえに、もっとも大事なものを差し出すべきところへ差し出して生きるように信仰の歩みへと導かれていく。そして、この信仰共同体が、ただの人間的な人の集まりではない、優しい人の群れではなく、主のみ業を喜び、主の慈しみと真を宣べ伝える群れとなっていく。それが信仰を継承していく人の姿でありましょう。
今日から聖週に入ります。イエスさまの十字架の苦しみを一層深く味わうときです。このとき、私たちは何をもってイエスさまの歩まれる十字架の道に備えることができるでしょうか。イエスさまが背負って歩まれる十字架は、私たちにどう言う意味をもたらしているのでしょうか。それをこの一週間の間、より深く祈って考えると時として持っていきたい。
詩篇92編の詩人は最後の方でこのように述べています。
「13 神に従う人はなつめやしのように茂り/レバノンの杉のようにそびえます。14 主の家に植えられ/わたしたちの神の庭に茂ります。15 白髪になってもなお実を結び/命に溢れ、いきいきとし 16述べ伝えるでしょう/わたしの岩と頼む主は正しい方/御もとには不正がない、と。」
この詩人の祈りと讃美が私たちの祈りと讃美となって、主の復活のその日には大いに喜び祝いたいです。