説教


主の復活祭
2012年4月8日
 
そして、ペトロにも
 

 今朝、私が来てからは初めてなのですが、野外で早天礼拝を行ないました。大宮公園では、桜が満開で、まるで礼拝をする私たちを迎えてくれているような感じでした。いつもと違う復活の朝を迎えて、みんな行った人は行ってよかったと思っていると思います。私は、先週までは行かないといっていましたが、みんな行くのに行かないのはなんだか損するような気がして、寒かったけれど行ってよかったと思います。

 復活の朝、いつもと違う朝を迎えていたのは、むしろ主の弟子たちだったのではないかと思います。しかし弟子たちは、私たちが、朝の清清しい気持ちの中で礼拝をして良かった、という気持ちとは全く違う、重ったるい気持ちで朝を迎えていました。主が、死んで、三日目になる日曜日の朝です。

 彼らは、イエスさまが生きておられるときに、死んで三日目に復活するという予告を何度も聞いていた人たちです。けれど、聞いていた言葉など、悲しみや、主を裏切ったという重い気持ちの底に沈んでしまったのでしょう。そういう彼らには、何のためにここまで来たのだろう?とうい虚脱感さえあったのかもしれません。中でも、ペトロは、主を知らないと裏切ったのですから、主の死が自分の所為ではなかったにしても、言葉に現すことのできない、恥ずかしい、悔しい気持ちが誰よりも強くあったと思うのです。ですから、安息日が明けたというのに、部屋の中に閉じこもったままです。

 でも、そういう雰囲気の中で、女性たちはお墓へ赴きました。ご遺体に油を塗るためにです。余談ですがこういう彼女たちを見るとき、やはり女性たちの方が切り替えが早いのかなと思うのですね。一つのことにそれほどくよくよとしている暇がない。香料も塗らなければならない、ご遺体がどうなっているのか気になっていたたまれない…たいへんなことがあっても、家族が食べなければならない、生活を続けることを考えて働くのは、やはりお母さんです。悲しみや悔しい気持ちを抱いたままです。座り込んで悩むような余裕などありません。

 お墓へ赴いた女性たちを向かえたのは、真っ白な、長い衣を着た若者でした。きっと、天使です。天使は彼女たちに、主が甦られたことを告げてくれました。そして彼女たちにこう言うのです。
 「行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」(7節)

 この天使の告げる言葉の中で目立つのは、「弟子たちとペトロに」という言葉です。平行している他の福音書を見てみても、ペトロの名が挙げられていません、マルコだけです。そして、「弟子たちとペトロに」という言葉が、原文では「兄弟たち、そして、ペトロにも…」となっています。原文とおり読むと、ペトロの名前が、特別な意味で指し示されていることがわかります。ですから、きっと、マルコは、「そして、ペトロにも」ということを通して、読み手に、何か、特別なメッセージを伝えようとしていたのではないかと考えられるわけであります。

 ペトロという弟子は、弟子たちの中でも目立つ人でした。
 フィリポ・カイザリアというところで、イエスさまが、人々はわたしのことを何者と言っているのか?という聞かれたことがあります。すると弟子たちは、「洗礼者ヨハネだと言う人も、エリヤだと言う人も、エレミヤだとか、預言者の一人だと言う人もいます」マタイと答えます。すると、その後に、それでは、あなたがたはわたしを何者と言うのか?と、弟子たちに問いかけられたとき、ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」マタイと真っ先に答えました。まるで、弟子たちを代表しているかのように、目立った返事をしてイエスさまに褒められます。

 ところが、そうであるならば、「行って、弟子たちとペトロに告げなさい」ではなく、「ペトロにこそ告げなさい」と、真っ先に彼の名前が出てくるはずであります。ペトロが一番ですから、ペトロの名前だけ挙げればいいと思うのです。しかし、ここでは、弟子たちの後に、ペトロにも、「そして、ペトロにも」と、何となく気になる言い方で彼の名前を挙げている。そこに、マルコが伝えようとしているメッセージがある、ということでありましょう。

 復活の朝、ペトロはどういう気持ちでいたのでしょう。ペトロは、大祭司の庭で、三度、主を知らないと否定した後、苦しみを受けておられる主に見つめられて、外へ出て、激しく泣いた人であります。それは、つい、三日前のことでありました。あの時から彼は、主を知らないと否定したそのことを思い出しては、悩み続けたことでしょう。ことに、事が、急速に運んで、主の身の上には、もっとも恐ろしいことが起こりました。彼は、主の苦しみが深くなればなるほど、自分の言った裏切りの言葉に苦しまれた。

 今、もう、彼は、何もかも信じることができなくなっているのかもしれません。自分自身は言うまでもなく、人から聞くことさえ、どこまで信じられるか。彼にとって十字架は言うまでもなく、主の復活の話しも怖いばかりで、慰めにはならない。ペトロは、きっとそういう悲痛な心境の中にあって、部屋の中に閉じこもり、自分の中に閉じこもって、深い闇の中をさ迷っている状態で復活の朝を迎えていたのではないか。そう思うのです。

 彼の人生は、主に招かれて、弟子として歩み始めてから、失敗と言えば失敗の連続でありました。フィリポ・カイザリアでも、立派に、「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)と信仰告白をした後に、主が受難予告を始められると、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(マタイ16:22)と戒めて、イエスさまから「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マタイ16:23)と叱りを受けます。ゲッセマネの園で主が祈られる際も、ヤコブとヨハネと一緒に連れて行かれたのに、主の祈りを待ちきれなくて眠っていました。後から思えば、主がもっとも苦しんでおられたときに、眠っていた、逃げて、十字架に付けられた主が死なれるその現場にもいなかった。

 この彼に、名指しで、「そして、ペトロにも」と、「ペトロにも知らせなさい」と、主のみ心が伝えられたのであります。息をすることさえまともにできないまま、部屋の隅っこに閉じこもって、まるで死んだように蹲っている者に、主が、復活の主がガリラヤへ先に行かれて、そこでお会いしたいというみ心が伝えられたのであります。自分は、いつも、主に対して不真実であったのに、主は、いつも、いつまでも、自分に対して真実でいてくださる。そして今も、真実に向かい合って自分の名を呼んで、招いておられる。信じることができなくて逃げている男に、主の方から信じて訪れてくださると言うこと。

 ですから、「そして、ペトロにも」というこの言葉は、自分のようなものでさえ、見捨てず、捉えてくださる。弟子たちの中でも誰よりも恥の多い人間の心の中を、すでに貫いておられた復活の主の祝福のメッセージにほかなりません。

 ペトロのことを考える時、私たちは、自分のことを思わないではいられません。ペトロの名が挙げられたことは、私たち一人ひとりの名が挙げられたことであります。私たちだって、主の前に、ペトロに負けないほど恥ずかしい人間であります。不真実で、嘘つきで、主と約束したことを平気で破るような弱いものです。その私の名が、「そして、ペトロにも」というそこに入れられている。あなたと、一番初めに出会ったそこで、あなたのガリラヤで、会いたい、復活の朝のメッセージとして主のみ心が私たちに伝えられました。これが、復活の朝の、主の呼びかけであります。

 主の主イエス・キリストの復活を思って、私たちも、恐れたり、疑ったり、きっと半信半疑でいるのではないかと思います。そう言って、迷い、ひねくれ、望みを失っている私たちを、復活の主が訪れてくださる。イエスさまご自身が、イエスさまの方から、私たちに近づいてくださり、語りかけ、呼びかけてくださることであります。それは、主の恵みとともに、主のお姿を示していただくことであります。イエスさまの方から、呼びかけてくださったとき、私たちは、はじめて、これがわかるのです。トマスもそうでした、パウロもそうでした、同じことをみんな経験した人たちです。

 こうしてみるとき、ペトロにとっては、主の復活は、単なる奇跡ではなかったことがわかります。
 もちろん、彼自身、主がどのようにして死から甦られたのか、ということはわかりません。一人の人間が、完全に死んで、また、完全に生き返ることがあるかないかということを議論した上で、主の復活を確かめて、信じたというのでもありません。トマスのように、自分は、この手で触ってみなければ決して信じないと言った人もいましたが、しかし彼も、触ってみたわけではありません。しかし、信じたのです。

 ですから、復活を信じることが、ただ奇跡が起ったことを信じることではない。少なくともペトロにとっては、主が甦られたことは、「そして、ペトロにも」と、天使を通して語りかけてくださったこの一言によるものでした。その後、彼がどのようにして主の復活を信じるようになったのか、それについては、聖書のどこにも書いてありません。ルカも、ヨハネも、ペトロが墓に行って、主の体を包んであった布が、見つからなかったとだけ伝えています。それを見ても、この時点では、ペトロはただ主の復活を不思議がっていただけなのです。それなのに弟子たちの間では、「本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた」(ルカ24:34)と語られています。このシモンとはペトロのことです。

 自分の数々の失敗にもかかわらず、自分を覚えてくださって、ペトロにも、伝えよ、と言ってくださった主を、彼は、主の道を歩みはじめて、初めて知ったのであります。そこで、彼には、主の復活は、まったく疑いのないものになった。聖書には、何も書いてありませんが、「そして、ペトロにも」と言われたこの言葉を伝えられたとき、彼は、あの大祭司の庭で主を知らないと三度も否定してから外に出て大泣きしていたように、「そして、ペトロにも」とこの言葉を伝えられて声を張り上げて泣いたのではないでしょうか。

 私たちの名前が挙げられています。失敗だらけの私たちの名前が、触ってみなければ決して信じないと疑う私たちの名前が、復活の主によって挙げられています。そして私を訪れてくださるというのです。
 復活の主が私たちを訪れてくださるとき、私たちは、トマスのように、パウロのように、そしてペトロのように、主イエス・キリストの復活をただ信じる者として変えられていくのです。主の復活をただ信じることができるとき、そこで、初めて私たちは、自分の人生に訪れて恵み豊かな人生として導いておられる主を見出すことができるようになります。そして何より、主の復活を信じることによって、わたし自身が信じられる。私の歩む道が、どんなことがあっても揺らがない、確かな道であることが信じられるようになるのです。






聖書


マルコによる福音書16章1~8節
1 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。 2 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。 3 彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。 4 ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。 5 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。 6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。 7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」 8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。