説教


復活後第1主日礼拝
2012年4月15日
 
見たから信じたのか
 

 イエスさまが死者の中から復活なさったことを祝って、一週間が立ちました。さて、イエスさまの復活を祝い、イエスさまの復活を通して信仰を営む私たちは、この一週間の間、いつもとは違う一週間でしたでしょうか。それとも、いつもと変わらない一週間でしたでしょうか?

 私は、いつもと同じ一週間でした。決められているスケジュールを果たすためにばたばたしていて、時に、人のことで腹を立てたり、いらいらしたりしていて、また、そう言う自分自身の姿にがっかりしたりしながら過ごしました。四旬節の間、主の復活を待ち望みながら祈り、そして復活の朝、喜んで迎えていたその姿はどこにもありませんでした。人の信仰は、こんなにも早く色を失せていくものか!と、まるで主の復活を祝った日が遠い昔のような感じで一週間を過ごしました。

 そして、今日、再び、一週間前の復活の朝のように、清々しい朝を迎えています。きっと、皆さんも、同じような思いの中で一週間を過ごされ、ここに招かれているのではないかと思います。
 そのような私たちは、今日、私たちとそれほど違わない主の弟子たちの姿から慰められるわけです。

 先ほど聞きました福音書の日課の、主の弟子たちのいる場は、お葬式の場のようです。イエスさまが、死んでしまった、もう会えない人となってしまった、と、弟子たちが泣き悲しんでいる姿が10節の方に描かれています。ところが、その彼らのところへ、復活なさった主に出会ったマグダラのマリアが、イエスさまが生きておられる、という喜びの知らせを伝えます。しかし、彼らは信じませんでした。信じられないのです。まだ、人生の終わりは死であると信じて生きる人には、復活は信じられないものでしょう。

 そして彼のところへ、もう一グループが、イエスさまの復活の知らせを伝えるために来ます。田舎の方へ歩いていた弟子たちが、復活なさったイエスさまに出会ったのです。二人は、大喜びだったのでしょう。そして、直ちに弟子たちに伝えますが、しかし、この二人の話しも信じませんでした。それだけ、イエスさまを失った弟子たちの悲しみが大きかった、ということでもあります。ともすると、大人の世界は死を恐れながら生きる世界なのかもしれません。子どもたちは、何歳になったら死の世界を知るようになるのでしょうかね。子どもによっても違うと思いますが、私は、小学校の低学年のときだったと思いますが、隣の家のおじさんが亡くなって、どうしていなくなったの?と母に聞いたことを覚えています。まだ、死ぬ、ということがわからない歳だったと思います。

 このようなことから考えますとき、「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(マタイ18:3)と言われたイエスさまのお言葉の意味が、少しわかるような気がします。子どもたちの素直な心、死を知らない世界、場合には悪人の前で笑顔でありのままを振舞い、人を変えていく、この姿は、死者の復活を信じることと関係があるのでしょう。

 以前もお話したことがあると思いますが、私の小さい頃、あの時はまだトカゲは大丈夫だったのでしょうか。今は、トカゲもダメです。トカゲの尻尾を切ってポケットの中に入れておくとポケットにお金が湧いてくる、という話しを先輩から聞いて、その通りにしてみました。尻尾がポケットの中で動くのを、気持ち悪いと感じつつ、でもお金ができるなら!と我慢して、遊んでいました。遊んでいるうちにトカゲの尻尾も動かなくなり、トカゲの尻尾がポケットの中に入っていることも忘れて、違う遊びに夢中になっちゃって、夜、着替えるとき母に怒られたりしていたのです。このことは何度も繰り返していました。結局お金が湧いてきたりはしませんでしたが、私はずっと信じていたような気がします。いつか、どこかで、お金ができる、と。今になって考えると不思議でしょうがないのですが、それが子ども心でしょうか、ね。
 イエスさまが、子どものようになって、ということはこのようなことなのかな?

 しかし、今は、弟子たちが信じられないのが、良くわかるのです。トカゲの尻尾を通してお金が湧いてくるなんて、大人になった今はもちろん信じませんし、それを信じる子どもを見て、かわいいな~と思うくらいですから、つまらない世界と言えばつまらないのが大人の世界です。子どもよりもずっと、限界の多い大人の世界を生きていると思うのです。

 ともかく、弟子たち。
 マグダラのマリアの話しも信じない。二人の弟子の話しも信じない。彼らはイエスさまに怒られました。不信仰だと、心が頑なだと、とがめられたのです。

 イエスさまが死んでしまったと、まるでお葬式の場でもあるかのように悲しみながら泣いている弟子たちの群れの中には、ペトロも一緒だったと思います。先週の、主の復活祭の説教でもお話しましたように、主を裏切ったという思いの中で、他の誰よりも深い悲しみの中にいるはずのペトロも、心を頑なにして、決してマグダラのマリアの伝えることを信じない、二人の弟子の仲間の話しも信じない、その一人でした。

 ところが、その彼が、本日の第一日課であります使徒言行録3章を読む限り、主イエス・キリストは復活して生きておられると、人々の前で説教をしているのです。しかも、長い説教です。もちろん、彼はこれから主の優れた弟子としての働きを全うし、殉教を遂げていく生涯を送るようになりますが、あれだけ自分の中に閉じこもり、人の言うことを決して信じない、主の復活を信じようとしなかった人が、主の復活を伝えるものとして変えられていく…何が彼をそこまで変えていくのでしょうか。

 私は、ペトロがこのように変えられたのは、他の言葉で、子どものようになれた!と言えるのではないかと思います。どうやって?
 先週の主の復活祭の日課で、復活されたイエスさまは、「ガリラヤへ行け、そこで会う」ということを弟子たちに伝えるように言っておられました。きっと、ペトロは、ガリラヤの湖のほとりで、復活なさったイエスさまに出会ったのです。そこで、ペトロの心は主に耕された。彼の失敗、裏切り、一つひとつ、彼の心の縄目となって、縛っているものから彼を解放し、救い出し、要らない服を一枚、二枚と脱げるように、頑なな心をやわらかくして、彼の心の畑を耕してくださいました。決して実ることを知らなかった畑に、豊かな実が実るように変えてくださったのです。

 聖週の土曜日、映画「パッション」を見られた方は、イエスさまが大工として働いておられたのを見ましたし、大体は、イエスさまは大工さんだったと思うと思いますが、イエスさまは農夫だったのではないかという説もあります。イエスさまのたとえ話の中には、ぶどう園や畑のことなど、農夫でなければ上げられないほど豊かな畑のたとえ話が多くあるためです。その中で、イエスさまは、このようなたとえ話をお話してくださいました。

 「3 『よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。4:4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。7 ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。8 また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。』9 そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。」(マルコ4:3~9)

 イエスさまが耕したペトロの心の畑は、三十倍、六十倍、百倍の実を結んだ畑のようになった。良い土地に変えられた。つまり、違う言葉で申しますと、彼は、聞く人へ変えられた、ということ。

 イエスさまのお言葉を聞く人へ変えられていく…

 ここで、説教をしていて、聞いている皆さんの顔を見てみますと、あ、あの方は聞いている、あの方は聞いている降りをしている、と、大体わかります。しかし、それ以上は、私も皆さんのことを知ることはできません。というのは、私たちは、聖書の言葉を聞きますが、聞いたものを耕されるのは、この場ではなく、ここから遣わされた生活の場で生かされるのですから、聞いたことは、生活の場で耕されるのです。復活の主は、もちろん、ここでもお言葉をもって奉仕をなさいながら、私たちと出会っておられますが、生活の場でこそ出会ってくださるのです。

 きっと、ペトロもそうでした。彼は、イエスさまとであったガリラヤで、漁をしていたガリラヤの湖のほとりで、復活の主と再び会ったのです。そこから、彼の心が耕され、彼は再び立つのです。十字架と復活の主に従う者として。

 「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」(ローマ10:17)と、パウロは述べます。聞くことによって始まった信仰が、その次の段階で、イエスに出会って見える信仰、心の目が開かれて、今まで知らなかった豊かな世界を知らされていく。

 ペトロは、心の目が開いて、本当に大事なものは何かを見るようになりました。だから復活の主を伝える者として遣わされていますが、だからと言って彼が完璧な人になったと言うことではありません。主の弟子として遣わされつつ、弱さを抱えたままです。不完全なまま、しかし、復活の主の力をいただいて、彼は三十倍、六十倍、百倍の実を実る人生へ導かれるのでした。
 私たち一人ひとりは、復活の主と一対一で出会うがゆえに、死が支配している世界の生き方ではなく、永遠の命が流れるほとりに植えられた木のように、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ者であります。私たちが、白髪になって、よろよろであっても、百倍の実を結べる豊かな、良い土地、実る畑に変えられた者であります。






聖書


マルコによる福音書16章9~18節
9 〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。 10 マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。 11 しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。 12 その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。 13 この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。 14 その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。 15 それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。 16 信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。 17 信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。 18 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」