教会の60周年の準備やその世話のために、皆さんお疲れさまでした。きっと、緊張が解けて、ほっとするあまりガックンと来ている方もいらっしゃるのではないかと思います。
これから、私たちは10年先へ向かって行きます。10年後一人ひとり個人としては自分は、どんな感じでどんなふうに歳を取っているのだろうと。また、私たちが集うこの教会の10年後の姿はどんな姿をしているのだろうと。想像すると楽しくなります。そして楽しみです。その10年後の姿を見るのが。
その10年間の宣教指針として、私は、ヨハネによる福音書13章で、イエスさまが死なれる前の晩に、弟子たちに与えられたみ言葉を揚げました。「34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」」(ヨハネ13:34~35)。このみ言葉です。
以前もお話したことがありますが、韓国では、中のいい夫婦は一個の大豆も半分に分けて食べる、という話があります。どんなに小さなものでも、相手と分かち合う。もちろん、いいものだけではありません。悲しみをも苦しみをも分かち合う。分かち合うときに、悲しみや苦しみは小さくなり、喜びは増していく、増えていく大きくなっていきます。
教会が生きるか死ぬかは、互いが愛し合っているかそうでないかにかかっていると思うのです。互いのことに無関心でいながら、み言葉が書かれているトラクターを何千枚まいたとしても、たとえそれによって人が集まってくるかもしれません。けれど実りはありません。私たちは、60年という長い歴史の中で、学んでいるのです。今の時代は互いに忙しい時代ですから、自分のことだけでも忙しいとは思うけれど、もう少し相手に関心を持って、小さなことでも気づくような気配りをしていきたい。時にはお便りも出してみたり、時にはメールをして、『元気ですか』と一言交わしてみたり…
こういうことを積極的に実践していくとき、教会は、生きている。伝道していることに繋がっていくのだと思うのです。イエスさまが新しい掟として与えてくださったこの戒めを、これからの10年間、実践して、生きた信仰の証人として歩んでいきたい。
私がこの教会に赴任してきて、今年で7年目を迎えることになりました。あと3年経てば10年になります。
それこそ、赴任されてきたはじめの頃は情熱がありました。今もないわけではないのですが、神学校での学びが終わったばかりのホットな知識と気持ち、やる気、自分にある力で、何だってできそうな思いがして、その思いで実際始めました。しかしこの頃、若さが持つ情熱的な力で伝道をして行こうとすることは本当はどうなんだろうと、再び気づかされています。もちろん、最初もそのことがわからなかったわけではありません。祈っていましたし、初めてですから、緊張もしていましたし、神さまの導きと支えをいただきながら進めていこうとしていました。しかし、人間的な力が先に溢れ出るのです。
そんな私に与えられる声が、聞こえる声が、あなたは主の僕だと、主の働きをしていると言いながら、実は、自分のことをしているのではないの?という声なのですね。自己中。自己満足の中にいるのではないの?って。
この思いにさせられたのは、今年の初めの頃です。主日礼拝の出席人数が減ってきて、まるで6年前の私がここに来たばかりの頃を思い出す状況でした。そこで、私は祈りました。「主よ、初めからやり直せ、ということですか?」と。「わかりました。初めからやり直します」、素直にそういうふうに祈り告白できたとき、自分の力でやろうとしていた、自分自身に自信を持っていたという事が。すべてではないけれど、半分以上は自分の力でやろうとしていたと思います。
こういう意味でも、60周年記念礼拝が終わったからすべてが終わったのではないくこれからが始まりなのです。互いに愛し合う、主の愛に生きる姿へ変えられていくことを通して、この世へ向かって、私たちが主の弟子であることを示して、その姿を一度見た人は、あの教会に行ってみたいと、来てと言わなくてもそういう思いをさせられる、そういう教会形成をして行きたい。
そういうのではこの10年後の礼拝。70周年を祝う70周年礼拝の時、その時はこの教会がどの様に変わっているのだろうって、期待してしまうのですけれども。
今日は、あの有名なペトロの話です。ヨハネ21章15節からの箇所なのですけれども、ここに描かれているペトロ。彼も、このときまでは、自分が持っている若さや情熱でもって主に従うことを決心していました。だから、彼は、主のためなら命をも捨てますとまで言えたのです。自分でも抑えられないほど情熱が溢れ出るから、そのときは、なんだってできそうな気がした。愛する主のためなら、命だって捨てられる思いになったのです。
その彼には希望がありました。もちろん、主を通して彼は希望を見ていました。主が、エルサレム城に入って政権を握られたら、自分だって政権を握ることになる。正義のために闘って、貧しい人や人権を奪われて余儀なく差別を受けている人のために闘ってやる、という正義感に燃えていた。そして、もしイエスさまが、エルサレム城で権力を握るようになったならば、彼は、実際にそうしていたと思います。ところが、それは、彼の一方的な、勝手な思いに過ぎませんでした。主を通して希望を見るけれど、自分の都合にあった見方でしか見ていなかったのでした。
皆さんはイザヤ書を読んだことがありますでしょうか。
旧約聖書のイザヤ書55章にはこのような言葉があります。
「8 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。」(イザヤ55:8)
一所懸命に、主のために、神さまのためにと思って人はやるけれど、それ=主の思いではない、ということがここでは述べられている。まさに、ペトロの、そして他の弟子たちもそうでしたが、主の弟子たちの思いは、先頭に立って十字架に向かって進まれる主の思いと遥かに違うところにありました。私たちはこの点にとても注意をしなければなりません。しかし、残念ながら、とても似ている場合が多くあります。私を含めて。
「8 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。」
それこそ、この言葉の意味を、今日、ペトロは、骨にまで染みるほど体験しています。
あの十字架刑が言い渡される夜、彼があの人のことなど知らないとイエスさまを知らないと否定したあの夜、その夜も炭火が炊いてありました。この日も、今日も、炭火がおこされてあります。この炭火で魚を焼いて彼らがイエスと一緒に朝食を終えたところなのです。その炭火を主がおこしたのでしょうか。彼が三度も『知らない』と否定していたように、主は、彼に、三度聞きます「この人たち以上にわたしを愛しているか」と。
裏切った数日前のことを思い起こされるような場面作りが、あまりにもリアルに設定されている中、彼は、まっすぐに返事をすることができません。以前は、誰よりもまっすぐに、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えていた人でありました。以前は、「あなたのためなら命を捨てます」と、躊躇することなく言っていた人であります。その彼が、まっすぐに主に向かって、大好きな主に向かって、「愛しています」という返事ができないのです。
なぜ?わかったから!自分の弱さ、自分の傲慢な姿で従おうとしていたことがわかったから!
数年前、ガリラヤ湖で漁をしていた自分を、「わたしに従いなさい。人間を取る漁師にしよう」と、主にコールされたのは、自分が考えて、描いていたこととはまったく違うことであったということを、彼は、やっと、わかったのです。
だから、主に向かってまっすぐに返事ができない。今の自分の気持ちを、主に委ねるしかない。徹底的に崩れていく一人の人間の姿。その彼に、主は、「私の羊を飼いなさい」と、ご自分の羊を委ねてくださるのでした。人間の目からみたら、この泣き崩れる弱い人に、しかも、神の民を牧会するように、主の民の群れが委ねられるなんて、ありえないそう思う。実際、私たちが生きる世界では、「私がやります。私に任せてください」と、実力がある人に大きな働きは委ねられていきます。しかし、天の働きはそうではない。逆なのです。破れる人間。心に割礼を受けた人間にこそ、天の働きは委ねられる。これが、天の法則であります。
「わたしの羊を飼いなさい」と言われるこの主の言葉は、ペトロにとっては、働きが委ねられている、という意味の言葉だけではありませんでした。この言葉の中には、「わたしはあなたを愛している」「私はあなたを信頼している」「信じている」という主の告白なのです。それは、18~19節を見ても分かります。ペトロの最期の時が主の言葉にあげられている。誰もモーゼもその人の最期の言葉で主に言われる人はいなかった。この世を終わることさえ主に関与していただける。ペトロは、本当に幸せな人だったと思います。ですから、「私の羊を飼いなさい」という言葉は、「あなたを、愛している」と言う主の愛の告白であると。
私が日本に来て、もうあれこれ23年になります。23年経っても満たされないものが一つあるのですね。日本では「愛している」という言葉をいうのに、とても乏しい。恥ずかしいのですかね。それとも愛していないのですかね。先週も私、友達がいいましたけれども、私たちは電話で話すときにも、彼女は私より歳が下ですからオムニって、お姉ちゃんって呼ぶのですけど、「サランヘ」って言うのです。電話切る時にも。普通に。メールでも最後に「サランヘ」とか書くし。何人か聞いていると思いますけれど、子どもに、まあ日本がこうだから、子どもが小さい時に抱きしめてですね「サランヘ」って言っていたのですね。それできっと彼は私に信頼をおいているのだと思うのですね。今は、きかないのですけど。毎日何回も言っていました。そして彼が話ができるようになったら、母さんが「サランヘ」って言ったら、私も、「ナドサランヘ」って、私も好きだよって意味なのですね。「サランヘ」は愛してるよ、好きだよって言う意味なのですけど。ずっともう自動的に、私が言っても誰が言っても彼は「ナドサランヘ」って必ず言ってきてくれる。小学校の時、低学年まではやっていて、でしばらくやっていて。で、中学1年の時に喧嘩したのですね。私が間違ったのです。だからどうやって機嫌を直そうかなって思って、「サランヘ」って言ったのです。そしたら「うるせえ」って。うまくいかないなって思って。でもうるせえって言われたのは、分かっている、言葉が分かっているからいいやと思ったのですけれども。で、こういう言葉を言うようにしたい。照れくさいですか。照れるのかな。私から言えばみんな言うようになるのかな。
そう、これは形なのかも知れないけれど、それを通して心の中の物が、好きだよってことがとけていくのですね。
このイエス様の愛はそういうものだと思うのです。「わたしも、わたしが、あなたを愛している!」どこまでも、いつまでも、いつも一緒におられて、徹底的に向かい合ってくださる主の愛する姿。
ですから私たちがこの10年間掲げる、このヨハネ13章の言葉。
あの死なれる前の晩に、弟子たちを集めて、「わたしがあなたがたを愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」と述べられた、その戒めを、主は、死んで復活した姿でそのまま自分の言葉を実践して、見せてくださいました。
この主がペトロに示してくださる姿は、今、ここにいる私たちに示しておられる姿であります。「この人たち以上にわたしを愛しているか」と、場合によってはあなたの大好きな家族以上に私を愛しているかと聞かれる時がある。そういう時に私たちは返事ができないかもしれない。なぜなら本当はそうできないものだから。本当は今、すぐ目の前にある愛する子ども。素直さならなおさら、この子以上に主を愛するってありえないと。だからまっすぐに、えペトロのように私たちは返事ができないものであるがゆえに、私たちは主に愛されている。そのことを大事にして歩んでいきましょう。