説教


復活後第4主日礼拝
2012年5月6日
 
ぶどうの木の愛
 
 つながる・・・命あるものは、つながることによってはじめて生きるようになる。植物も、動物も、人間も。私たちは、今、なにとつながって生き、誰とつながろうとしているのだろう・・・
 ぶどうの木は、一個の根っこから成長し、たくさんの枝を出している。枝が先にあったわけではなく、根っこから伸びた幹から枝が出てつながっている。根っこから栄養が行き渡り、根っこから生きる力が幹を通して枝全体に配給される。ぶどうの木の枝の命の源は根っこなのである。だから、枝が木から離れれば、生きることができない。
 イエスさまは、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(5節)とおっしゃっておられる。この言葉は「私の愛にとどまりなさい」(9節b)と同じ言葉である。つながる=とどまる。
 イエスにつながっていれば豊かに実を結ぶということは、今の私たちにとって何を意味する言葉なのだろう? 確かに、ぶどうの木は、つながっていることによって秋になるとたくさんの実を結ぶ。それならば、私たちにとって豊かな実りとは何だろう?この世で成功すること?お金を設け、社会的な地位を得て、セレブとなり、華麗な家で暮らすことなのだろうか!または、たくさん伝道をして、教会に人が溢れるようになることなのだろうか?
つながる・・・自らつながる・・・自給する教会の姿を現すことを、私たちは十年間のヴィジョンとして掲げた。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」というイエスさまの新しい戒めを掲げたのである。だから、どこにつながって誰と共に生きるかを見極めて歩み出さなければならない。
 根っこから常に栄養は送られており、生きて実を結ぶための力も送られてきている。それらを、まったく違うところに浪費してしまわないためにも、主につながり、互いにつながって、主の愛にとどまるものでありたい。





聖書


ヨハネによる福音書15章1~10節
1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。 3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。 4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。 5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。 6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。 7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。 8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。 9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。