ある人は、一生涯のうち三人の友ができれば、その人の人生は成功した人生という。一理ある言葉であると思うようになったのは、きっと年齢が重なっている証拠であろう。三人までも言わず、一人でも心の奥底を分かち合える友がいれば、と思うようなことが増えてきた。
主は弟子たちに、「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らない。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」(15節)とおっしゃっておられる。聞く人にとってとても親しみのある言葉である。しかし、言葉の内容をよく吟味してみるとき、ただの親しみのある言葉ではない。そこには、主の友として、主の言葉に主体的に振舞うことが求められている。つまり、僕であれば、指示されたことをしているだけで役割を果たしていることになる。しかし、「友」となれば、互いが互いに対しての責任が生じ、主体的な関わりが求められる。
「神は愛なり」という。愛の神。この方を主はすでに「あなたがたに知らせた」と。私たち(弟子たち)は既に聞いたとおっしゃっておられる。その私たちが主の友という立場に定められるということは、主に教えていただいた「愛なる神」を、まだ知らない人々に知らせる責任が伴われるということ。それの具体的な働きが、本日の箇所で二回も言っておられる「互いに愛し合いなさい」という戒めを守ること。つまり、「互いに愛し合いなさい」という戒めを守ることに主体的に関わることが求められているということである。
宣教60周年を向かえ、指針として挙げた言葉、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)が、まずは私たち一人一人の生きる指針となるように、生活の中で生きた言葉として生かしていきたい。そしてそれが、他者と共なる日々の力の源であるように。人は、苦難の時に、他者と愛し合うことなしにはその苦難を乗り越えることは難しい。私のあらゆる状況の中に、他者として、友となって、私と共におられる方に気づく。
参照箇所:詩篇98編