「神の前に 神なしに 神とともに」 この言葉はボンヘッファーが言ったという有名な言葉である。「自立した信仰者」を表す言葉であろう。
イエスの昇天は従う者にとって大きな意味を与える。イエスが、従う者の目に見えないところへ離れていく出来事であり、従う者はイエスなしで歩むことになるから。イエスは、弟子たちをベタニアというところの辺りまで連れていくのだが、そこで彼らと別れていく。そこで、イエスは天に昇られ、弟子たちはエルサレムに帰る。今までのイエスと弟子たちの関係から考えると、とても不思議な光景である。過去の弟子たちならば、天に昇られるイエスの裾でも掴んで泣きすがっていたはずなのに、しかし、イエスと別れ、むしろ大喜びでエルサレムへ帰っていく。「神の前に 神なしに 神とともに」生きはじめた、自立した信仰者としての姿が、昇天なさる主と別れる弟子たちの姿に現れている。
つまり、この姿は、漠然な信仰をもち、誰かが導いてくれるだろうというような、他者任せ的な歩みから、自らの責任の下で信仰の歩みを選び取っていく、具体的な歩みへ変えられたということの証しであろう。彼らは、復活の主との出会いによって変えられた。これからの歩みのすべての責任は自分自身がもつ。けれど、彼らは知っている。自分は、決して、一人ではない、ということを。
「神の前に 神なしに 神とともに」。この言葉は大人に向けて語られる言葉である。成長期にある子どもは導き手が必要だし、その子どもを導くのは大人である。だから大人は自分の信仰が大丈夫だ!と案じる前に、誰かが導いてくれるだろう、誰かがやってくれるだろうと依存的に、または怠慢な姿勢の信仰の歩みをしていたりはしないだろうか?と、自らに問いかけてみる必要がある。もしそうであるならば、その人は昇天するイエスと大喜びで別れることはできなければ、強そうに思える人の裾を掴んで泣き崩しているとことになる。「神の前に 神なしに 神とともに」生きる、自立した信仰者の群れが、まことの教会を生み出していく、ということを心に刻むものでありたい。 |