説教


昇天主日礼拝
2012年5月20日
 
行く道が別れる
 
「神の前に 神なしに 神とともに」 この言葉はボンヘッファーが言ったという有名な言葉である。「自立した信仰者」を表す言葉であろう。
イエスの昇天は従う者にとって大きな意味を与える。イエスが、従う者の目に見えないところへ離れていく出来事であり、従う者はイエスなしで歩むことになるから。イエスは、弟子たちをベタニアというところの辺りまで連れていくのだが、そこで彼らと別れていく。そこで、イエスは天に昇られ、弟子たちはエルサレムに帰る。今までのイエスと弟子たちの関係から考えると、とても不思議な光景である。過去の弟子たちならば、天に昇られるイエスの裾でも掴んで泣きすがっていたはずなのに、しかし、イエスと別れ、むしろ大喜びでエルサレムへ帰っていく。「神の前に 神なしに 神とともに」生きはじめた、自立した信仰者としての姿が、昇天なさる主と別れる弟子たちの姿に現れている。
つまり、この姿は、漠然な信仰をもち、誰かが導いてくれるだろうというような、他者任せ的な歩みから、自らの責任の下で信仰の歩みを選び取っていく、具体的な歩みへ変えられたということの証しであろう。彼らは、復活の主との出会いによって変えられた。これからの歩みのすべての責任は自分自身がもつ。けれど、彼らは知っている。自分は、決して、一人ではない、ということを。
「神の前に 神なしに 神とともに」。この言葉は大人に向けて語られる言葉である。成長期にある子どもは導き手が必要だし、その子どもを導くのは大人である。だから大人は自分の信仰が大丈夫だ!と案じる前に、誰かが導いてくれるだろう、誰かがやってくれるだろうと依存的に、または怠慢な姿勢の信仰の歩みをしていたりはしないだろうか?と、自らに問いかけてみる必要がある。もしそうであるならば、その人は昇天するイエスと大喜びで別れることはできなければ、強そうに思える人の裾を掴んで泣き崩しているとことになる。「神の前に 神なしに 神とともに」生きる、自立した信仰者の群れが、まことの教会を生み出していく、ということを心に刻むものでありたい。





聖書


ルカによる福音書24章44~53節
44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」 45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、 46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、 48 あなたがたはこれらのことの証人となる。 49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」 50 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。 51 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。 52 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、 53 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。