説教


聖霊降臨祭礼拝
2012年5月27日
 
枯れた骨の復活
 
 「聖霊」を見た人は一人もいない。「聖霊」は目でみるものではないから。
 最初期のキリスト教会の中での聖霊は多様なイメージで捉われていた。ところが、381年に開かれたコンスタンティノポリス公会議において、三位一体の神が位置づけられることにより、聖霊とは三位一体の一格となった。それによって、最初期の教会がもっていた聖霊に対する多様性、そしてそこからの豊かさは完全に失われるようになった。
 今の私たちにとって聖霊は、どのように捉えられているのだろうか。
 創世記2章7節で神は、お造りになった人の中に「命の息」を吹き入れて、生きるようにしてくださる。この「命の息」がないとき、人は、ただの土くれでしかなかった。この「命の息」こそ、人を真の意味で生かせる聖霊なのである。この「命の息」を私たちはどのように感じ、見出しているのであろうか。
 本日の旧約聖書のエゼキエル37章には、枯れた骨の中に「命の息」が入ると生き返るような、奇跡的なことが起きている。この枯れた骨は、死んで長い歳月が経ち、もはや枯れてしまった、希望のない、ただの土くれのようであった。そこに神の「命の息」が吹き込まれると、それらは生きるようになった。
 私たちは、今、確かに、生きている。エゼキエルが見たように骨は枯れていなければ死んでもいない。ところが、エゼキエルが見ている幻は、人の霊的な状態を現すものである(11節)。つまり、神を通していただく真の愛がない状態。愛が枯渇している状態が枯れた骨に喩えられているのである。
 人は、「愛する」と言いながらも、その愛が神から来た「命の息」によって生み出されるものでなければすぐ枯れてしまう。男女の愛、友人関係の愛、親子関係での愛であっても、この世の価値観を基盤とする人間的な愛であれば、それはすぐ枯れるようにある。それゆえ、「互いに愛し合う」ことを信仰の歩みの肥やしとし、教会の宣教指針として歩み出した私たちにとって「命の息」の働き、聖霊の働きは、欠かせないものである。





聖書


ヨハネによる福音書15章26~16章4節
15:26 わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。 27 あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。 16:1 これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。 2 人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。 3 彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。 4 しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」