「聖霊」を見た人は一人もいない。「聖霊」は目でみるものではないから。
最初期のキリスト教会の中での聖霊は多様なイメージで捉われていた。ところが、381年に開かれたコンスタンティノポリス公会議において、三位一体の神が位置づけられることにより、聖霊とは三位一体の一格となった。それによって、最初期の教会がもっていた聖霊に対する多様性、そしてそこからの豊かさは完全に失われるようになった。
今の私たちにとって聖霊は、どのように捉えられているのだろうか。
創世記2章7節で神は、お造りになった人の中に「命の息」を吹き入れて、生きるようにしてくださる。この「命の息」がないとき、人は、ただの土くれでしかなかった。この「命の息」こそ、人を真の意味で生かせる聖霊なのである。この「命の息」を私たちはどのように感じ、見出しているのであろうか。
本日の旧約聖書のエゼキエル37章には、枯れた骨の中に「命の息」が入ると生き返るような、奇跡的なことが起きている。この枯れた骨は、死んで長い歳月が経ち、もはや枯れてしまった、希望のない、ただの土くれのようであった。そこに神の「命の息」が吹き込まれると、それらは生きるようになった。
私たちは、今、確かに、生きている。エゼキエルが見たように骨は枯れていなければ死んでもいない。ところが、エゼキエルが見ている幻は、人の霊的な状態を現すものである(11節)。つまり、神を通していただく真の愛がない状態。愛が枯渇している状態が枯れた骨に喩えられているのである。
人は、「愛する」と言いながらも、その愛が神から来た「命の息」によって生み出されるものでなければすぐ枯れてしまう。男女の愛、友人関係の愛、親子関係での愛であっても、この世の価値観を基盤とする人間的な愛であれば、それはすぐ枯れるようにある。それゆえ、「互いに愛し合う」ことを信仰の歩みの肥やしとし、教会の宣教指針として歩み出した私たちにとって「命の息」の働き、聖霊の働きは、欠かせないものである。 |