私たちは、できれば、医者を必要としない、健康な暮らしをしたいと思います。しかし、時代が新しくなっていくことにつれて、昔よりは今の方が病気の種類も増えたような気がしますし、何らかの病を抱えている人が多くなりました。これは、医学の発達によって、昔は表に表れなかったものが表面かされたというふうにもいえると思います。または、実際に、現代という時代背景の中で、人が病にかかる確率が高くなったのも事実かもしれません。
現代病と言われる一つにメタボーがあります。メタボーとは、やはり昔はあまり聞かないものだったと思います。カロリーの取り過ぎ、それに比例して体を動かしていないことがメタボーの原因になると思いますが、このメタボー状態を、私たちは、肉体的な面でだけ捉えるのではなく、精神的な面で、または霊的な面でも捉えることができるのではないかと思います。
その例を本日の福音書から探すことができます。
マルコ2章13節~17節が本日の日課でありますが、この短い数節の中にはたくさんのメッセージが含まれています。もっとも主なものは、徴税人であり、罪人と言われていたレビが主の弟子として召されていく召命物語でありますが、しかし、そのことがきっかけになって、多くのメッセージを私たちに示唆してくれる箇所となっています。
イエスさまは、通りかかった収税所で、レビを召してくださいました。レビにとってこのことは、ありえない出来事であります。人生が百八十度展開される出来事ですから、彼は嬉しいあまりイエスさまを自分の家に招きました。そして、仲間たちを呼んでわいわいと、その喜びを現していました。
ところが、その場に、招いていない人たちも入ってきました。ファリサイ派と律法学者たちです。彼らは、みんなが囲んでいる食卓の遠いところから弟子たちを通して非難の言葉を伝えます。「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」(16節)。
私たちは、このファリサイ派と律法学者たちの立ち方に、気をつけて見たいと思います。ともすると、この姿は、他でもなく、この私たち自身がすぐ身につけやすい姿であるからです。自分と合わない人や概念、または常識から外れている人に対してすぐ取りたがる態度がこの態度であるからです。このような姿こそが、霊的にメタボー状態である人の病んでいる姿であると。
先ほども申しましたが、レビの仕事は徴税人でした。
当時、イスラレルには徴税制度はなく、収入の十分の一を捧げることが義務化されている宗教国家でした。しかし、ローマの植民地になってから、ローマ帝国の制度であった徴税制度が強いられるようにあって、イスラエルの人たちは二十の税を納めるような、苦しい生活の中にあったのです。当然、レビはローマの税金を集める仕事ですから、同胞からは嫌われます。さらに、徴税人とは、汚れた職業として罪人と言われ、礼拝共同体の中に入れてもらえなかったのです。イエスさまが、そういう人たちといっしょに食卓を囲んでいますから、ファリサイ派や律法学者たちの目には、変な男としてしか映らなかったのでしょう。
徴税人は汚れた職業であった。この汚れ!という言葉は、旧約聖書の中に良く出てくる言葉です。人が食べられる動物と食べられない動物がありました。豚のように足の爪が割れていない動物は、神さまに捧げる献げ者にもならなければ、食べないように禁じられていたのです。そういう動物は汚れたものとされました。または、人も、徴税人とか娼婦とか、羊飼いのような仕事についている人は、汚れた人と理解されていました。
このように、清いと汚れを分けたがる人たちにとって「誰といっしょに食事をするか?」ということは、とても大事なことでありました。汚れた人とは決して食事をいっしょにしない、崩せない守りであったのです。
これは余談でありますが、時々、『この人と食事をしたことがあります!』と誇らしげに言う人がいます。そういうことを聞きながら心の中では「だから何?」と言いたくなるのを我慢してしまいますが、二度と会いたくない相手です。きっと、偉い人と食事をしたことによって自分もそう思われたい思いがあるからそういっていると思いますが、偉い人と食事をしても、カロリー接収が高くなるだけで、精神的な面でも必要ではないカロリーがつくだけだと思います。こういうことを、精神的なメタボー状態だと言っていいと思います。
メタボーは病ですから、本当は、このファリサイ派や律法学者たちこそ医者が必要な人たちと思いますが、しかし、イエスという医者はこの人たちには必要ないわけなのですね。この人たちは、差別することはできても差別を受けたことがなく、自分たちは、神の前に一点も罪を犯していない、すべての律法を守っている、そして、自分たちこそ救われて当たり前な神の民であるという自負心があり、神の前に自信満々の人たちです。まったく医者などいらない人たちでありました。
イエスさまは、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(17節)とおっしゃっております。
それこそ、こういう医者を必要としているその一人、レビ。収税所に座っていたレビが、イエスさまのコールを受けました。仕事場にちゃんと辞表を出したのかどうかわかりません。しかし、大事なことは、レビが、呼ばれたその場で、直ちに立ち上がったということ。直ちに立ち上がることができたのは、彼自身いやいや就いていた仕事だったからとも考えられます。生活のために勤めているとはいえ、同胞からくる冷たい視線を浴びながら、精神的に干からびて、渇いていく、そんな只中にいる自分をイエスは呼ばれた。だから直ちに立ち上がるしかなかった…十分このように考えることができます。
結局、レビは、徴税人という仕事、そして人々から浴びる冷たさを、自分自身の力ではどうすることもできなかった。同時に、渇いてくる心、病にまでなってしまいそうな心を満たすすべはなく、どうしようもないそこに、イエスがメスを入れてくれた。『わたしに従いなさい』(14節)と。鋭いメスです。この医者の関わり方は、躊躇する余裕をゆるしません。聖書のどこにもレビの迷いは出ていません。呼ばれて、え?どうしよう?仕事の途中なのに…今すぐですか?など、レビの考える姿はどこにもありません。ですから、レビがいやいやと仕事についていたから、その仕事を早くやめたかったから直ちに立ち上がった、というような、呼ばれる側の事情によって物事が進められているということではないのです。そうではなく、人に対する神の招きはこういうものだということであります。一方的なもの。
本日の第二日課であります2コリント1:19では、イエス・キリストにおいては『然り』だけが実現したと述べています。『否』と『然り』が同時にではなく、『然り』のみが実現したというのです。この『然り』は、イエス・キリストの十字架を指していると理解することができますが、ですから、この『然り』とは、揺るがないもの。神の愛の中で実現されなければならなかったもの。神の御心がその通りになるようにして立たされた主の十字架であって、それはまた、私たちが招かれる際にも実現された、神の強い愛であります。私たちが神の愛に生きるように御心の通りになったということ。この神の愛は、人に考える余裕を持たせず、一方的に降ってくるものであります。または神ご自身も、『わたしはあなたを愛しようとしているのだけど、あなたはどう思う?』と聞いてから、愛してくださったり、辞めたりする方ではないということ。ひたすら、一方的に、罪人の神となって、罪人の友となって、罪人の渇いたところへ近づいてきてくださる、断ることのできない、御心のままになるべく愛であります。これが神の『然り』であります。
レビは、神さまの『然り』のただ中に預けられたのでありました。座っていた収税所から直ちに立ち上がる。イエスさまの方へ居場所を変えました。イエスの医者として差し出したメスは、レビ新たな道を示し、揺ぎ無い神の愛を伝える働きへ遣わしていくのです。
イエスさまの方へ居場所を移していくレビの行為には深い教えがあります。
レビが収税所に座っているというときに使われている『座っている』(という原語は、進行形です。英語で言えば「sitting」ですね。この進行形が示すのは、レビは、今まで座り続けてきて、これからも座り続けるであろうということを示していると考えることができます。ですから、レビが仕事場として座っていたそこは、レビにとって、こういう運命だからしょうがないと諦めた人生を生きる場であって、ですから、人の力では動かすことのできない、そういう状況のただ中に座っていた。問題のただ中に座り込み、希望のない日々を送っていた、そこへ、イエスさまは介入してこられた、ということであります。
このレビと比べて、ファリサイ派と律法学者たち。彼らは、自分という自我の中に閉じこもって、決してその場から移ろうとしない、自己正当化の中に生きる人たちです。まさに、要らない者で魂の周りに脂肪を増やして、本当の神との関わりを知ろうとしない、メタボー状態の信仰をもっていると言える人の姿です。
私たちは、肉体の健康の面では医者がいらないように生きたいですが、しかし、心の、魂のメタボーにメスを入れてくれる医者を必要とする生き方をしたいのです。依然として古い自分の中に、いつまでも居続けようとしているファリサイ派や律法学者たちのように、職業柄において、民族や国籍や、その他のあらゆることにおいて、相手が自分と違う、汚れているという思いの中で人を自分から切り離していこうとする生き方から立ち上がりたい。傲慢で、魂にまで厚い脂肪に包まれているメタボー状態を嫌う信仰の歩みをしたいのであります。
最後に、本日の説教要約のところにも書きましたが、クリスチャンには四つのタイプがあると言われます。
一 木馬クリスチャン
動揺し、揺れ続けるだけで一向に前進しないタイプの人。
二 キセルクリスチャン
青年時代に受洗、壮年時代は空白、晩年になって信仰復帰をしているタイプの人。
三 孔雀クリスチャン
天を飛ばず、地上を、羽を広げて摺って歩くようなタイプの人。
四 石鹸クリスチャン
自分の身をすり減らしながら、世を美しく清くしようとするタイプの人。
「福音と笑い これぞ福笑い」(山北宣久著)より
さて、命をも差し出しながら、私たちの霊的貧しい糧の食卓に近づいてきていっしょに囲んでくださる方の強い愛に生かされている私たちはどちらかのタイプに入っていたりはしないでしょうか。今、私は、どこに座り続けようとしているのでしょうか?